何もない部屋 〈優香〉
2020/11/10
一 家出噺
カミさんが家出してから、二か月が過ぎようとしていた。未だに、ふと思い出してカミさんに電話をかけたくなる。カミさんと二人で直接話し合えたら、この行き違いは解決できると思うのだ。けれども、カミさんの電話に何度かけても、「電源が入っていません」と合成音声が繰り返されるばかりだった。
実家の番号に電話をすると、しばらくして、カミさんの顧問弁護士から連絡があった。「これ以上接触しようとするなら、ストーカーとして訴えるつもり」だという。まがりなりにも一〇年近く連れ添った旦那を、ストーカー扱いするのか。怒りが頂点に達し怒鳴りまくる僕を、弁護士は丁寧な口調で冷徹にあしらった。あの慇懃無礼な弁護士とのやり取りを思い出すと、今でも腸(はらわた)が煮えたぎってくる。
納得のいく理由もなく、いきなりカミさんが家を出て行ったとき、いったいどうするべきなのか。直接真意を問い質したくなるのは、人間としてあたりまえの行為ではないのか。この苛立ちとやるせなさを、どこに持っていけばよいのか。僕は感情の置き所がなく、宙ぶらりんのまま二カ月を過ごした、
そんなとき、直属の上司である榎本部長から飲み(ヽヽ)の誘いがあった。次期取締役と言われてから何年も過ぎた榎本部長だか、おおらかな性格で面倒見もよく、部下から慕われている。榎本部長とサシで飲むのは半年ぶりであろうか。
神保町の焼鳥屋に落ち着き、焼酎を飲んでいると、
「ところで、奥さんは、どうしたんだい?」
と、榎本部長が急に話を振ってきた。
「会社で噂になっているから、俺も気になっているのさ。奥さん、家出したんだってなあ」
カミさんの話題になることは、ある程度想定していた。
「はい、聞いてくれますか?」
僕はいつもの枕詞を口にしてから、
「大阪出張から最終の新幹線で帰京して、四谷の自宅マンションにたどり着いたら、我が家が『もぬけの殻』になってたんですよ」
と続けた。カミさんが家出をした顛末は、何人かに話しているうちに、落語のネタようにまとまってきた。面白可笑しく脚色した小噺に仕立て上げ、高座に上がった落語家のように身振り手振りを交えて賑やかに話す。皆に笑ってもらい、自分も大いに笑う。これが何よりのストレス解消だ。というより、そうでもしなければやってられない。このネタを何回も語ることで、一枚、また一枚と、薄紙を剥ぐように苦しみのベールが剥がれ落ちて行く、と期待している。
そう、あれは七月末の熱帯夜だった。大阪出張で疲れ切った僕は、一二時過ぎに四谷のマンションに帰りついた。カミさんを起こさないように気を使って、そっと鍵を開けて入る。すると、何だか家の中がガランとしている。人の気配がなく、まるでブラックホールのような空洞が広がっているようだった。
いぶかしく思って電気をつけると、三日前に出張に出かける前の、あの雑然とした中にも温かみのある我が家が消え失せていた。テーブル、椅子、冷蔵庫、ソファ、テレビ、全てがなくなっている。隣の部屋に行ってみると、ベッド、毛布、洗濯機、電子レンジ、そのうえクーラーまでがなくなっていた。
「最初は、僕が家を間違えたんだと思ったんですよ」
話は、いよいよ落語でいうところの「サゲ」に向かって走りはじめる。
実際、僕は自分の部屋番号を確認するために、いちど廊下に出た。一〇〇七号室。間違いなく僕の部屋番号だ。白地に黒い文字で、「佐山」と描かれた表札もある。いや、自分の鍵を使って部屋に入ったのだから確かめるまでもなかった、と思い直し、改めて呆然とした。カミさんのスマホに電話をかけるが、「おかけになった電話番号は電源が入っていないか、電波の届かない場所にあって……」という機械的なアナウンスが流れた。
ふと見ると、台所の流し台の横に、白い封筒を発見した。中には、カミさんの字で「あとは、弁護士とお話してください。」とだけ書かれた手紙があり、弁護士の名刺がクリップで留められていた。
「真夜中にヘトヘトになって家に帰り着いたら、これですよ。クーラーもない暑苦しい部屋で丸まって眠ったんです。汗だくですよ。まがりなりにも一〇年連れ添った旦那に、せめてタオルの一枚も残しておくのが武士の情けと思いませんか。あっはっは」
最後は、明るく笑ってみせる。だがその日は、いつもの小噺にはない一言を付け足してしまった。カミさんとの結婚式に出席してくれた榎本部長だったから、つい本音が出たのかもしれない。
「僕が四〇歳で、カミさんは三九歳。こんな年になって、なんで今更なんでしょうねえ、わかりません」
榎本部長は憐みを含んだ眼差しで僕を見つめ、唐突に、
「おい。これから銀座のクラブへ付き合ってくれ」
と誘った。
二 出会い
半ば強引に引っ張って行かれたのは、八丁目の並木通り、ケーキ屋のビルの上にあるル・ジャルダンという名のクラブであった。榎本部長が店に入っていくと、
「いらっしゃいませ」
「榎本さん、どうぞ」
とボーイたちから声がかかった。奥の右側の席に案内され、『榎本様』とボトルネックのつけられた山崎(ヽヽ)のボトルが出てきた。
「えのもっちゃん! 嬉しい!」
1人のホステスが、榎本部長に駆け寄って飛びついてきた。
「優香ぁ、優香に会いに来たんだよぉ」
榎本部長はたちまち相好を崩し、ホステスを抱きしめて頬を擦りつけた。
優香と呼ばれた女は、浅黒く焼けた肌をしていて、手足がほっそりと長かった。年のころは二〇代の半ばくらいだろうか、大きな切れ長の目をしていた。その大きな目を強調する化粧が、真っ黒でよく動く瞳を際立たせている。
榎本部長の肩越しに、優香と僕の目が合った。その瞬間に、電流が走った。可愛い!! まさに僕のタイプだ。顔が小さくて、スタイル抜群で、こんな女の子が俺のカミさんだったら、どんなによかったろう。こういう女の子をカミさんに選んでおけば、こんな理不尽な扱いは受けなかったかもしれない。なぜか、そんな妄想が頭をよぎった。
優香は榎本部長の隣に座り、私の隣にはベージュのスーツを着たホステスが座った。考えてみれば、優香は榎本部長の〝係〟なのだから、当然の位置関係である。話してみると、ベージュのスーツのホステスも悪くはなかった。上品な雰囲気で、せいいっぱい僕に話を合わせてくる。だが、優香に比べれば月とスッポン、比べることさえおこがましいと思う。
榎本部長と優香は恋人同士なのだろうか。榎本部長は朴訥そう見えて意外に手が早い、という噂を聞いたことがある。そういえばその昔、仙台のスナックのママとの関係を噂されたことがあったっけ。あのママさんも色っぽくて悪くなかった。もしかすると榎本部長と僕は、女の趣味がけっこう似ているのかもしれない。それとなく、榎本部長と優香を観察してみた。イチャイチャと、仲良さそうにじゃれている。出来ているのか、いないのか、どちらとも判断がつかなかった。
それにしても、榎本部長のこんなデレデレした顔は初めて見た。意外にロリコンだったんだなあ。いくらなんでも、はしゃぎ過ぎじゃないだろうか。
「こいつは、我が社の生え抜きのエリートだぞ。奥さんに逃げられたばかりなんだ、お前たち、今がチャンスだぞ、チャンス!」
榎本部長がホステスたちを煽った。
「あら、バツイチなんですか」
「えー、こんなにカッコいい人を振っちゃう女の人なんていないでしょう」
「信じられない」
さすがに訓練されたホステスらしく、間髪入れずに如才ない反応を返してきた。
「佐山くん、奥さんに家出されたときのことを話してやれよ」
榎本部長が促した。先ほどのネタをもう一度ここでやれ、という催促だった。
「えっ、ああ、はい。聞いてくれるかい?」
僕は例の枕詞を、まず口にした。
「大阪出張から最終便の新幹線で帰京して、中野の自宅マンションにたどり着いたら、我が家が『もぬけの殻』になっていたんだよ」
神保町の焼鳥屋で話したのとまったく同じストーリーを、まったく同じ口調、手ぶりで語った。最後のサゲまで、同じだった。
「汗だくだよ。まがりなりにも一〇年連れ添った旦那に、せめてタオルの一枚も残しておくのが武士の情けだと思わないか。あっはっは」
ホステスたちは、いっせいに笑い声をあげた。
「えー。奥様、あんまりですよね。ひどいわ」
「クーラーぐらい残しておくべきよ」
「佐山さんのように素敵な人に、そんな仕打ちは有り得ないです」
「私、結婚願望が強いんです。お料理には自信がありますよ」
僕はおおいに救われる気持ちになった。榎本部長の笑いで、一枚の薄紙が剥がれた気分であったが、優香やホステスたちの嬌声に包まれると、一挙に数枚の苦しみのベールが剥がれて流れていくように感じた。
「そんな冷たい奥さん、出て行ってくれてよかったのですわ」
ベージュのスーツを着たホステスが言った。
「駄目なときは、何をしても駄目なものですよね」
何やら実感のこもった声で。優香が言った。ピンク色の口紅が塗られた形の良いふっくらとした唇から、真っ白で小さな白い歯がこぼれていた。
そのとき、着物を着た貫録あるオバサンが席にやってきた。
「おう、ママ。今日は、わが社の優秀な生え抜きを連れてきた。よろしくお願いしますよ」
榎本部長が、ママと呼ばれたオバサンに僕を紹介した。僕は「望月明美」と書いてある名刺を受け取り、榎本部長に促されるまま自分の名刺を差し出した。
厚化粧のママが席に座ると、優香とベージュのスーツを着た女は急に口をつぐみ、静かになってしまった。背筋もちょっと伸びたようだ。そんな空気を察したのか、榎本部長が明美ママに話しかけた。
「そうそう。この前、こちらにうちの常務がお邪魔したようで」
「まあ、お聞き及びですか。常務様はお変わりありませんね。相変わらず、そつがなくていらっしゃって」
「わっはっは。いや、常務からそつがないところを取ったら、何も残らんでしょう」
榎本部長は笑った。我が社の偉いさんたちも来ているクラブのようだ。
明美ママは、席に座ったと思ったらほんの一〇分ほどで席を立っていった。ベージュのスーツを着たホステスは急に肩の力が抜けた様子で、大袈裟に、ふう、と溜息をついた。
優香が新しいボトルをおねだりした。榎本部長はそれをロックで飲むと言い出し、酒を飲むピッチが上がった。
「佐山さん、お酒がお強いのですね」
「やっぱり、お若いからでしょうねえ。こんなにピッチが早い方はいないです」
「水割りを作るのが間に合わないくらいだわ、びっくりします」
ホステスたちも、口々に煽り立てた。
榎本部長が化粧室に立った隙に、ベージュのスーツのホステスにねだってみた。
「LINEを教えてくれる?」
「あら、嬉しい。よろしいですか」
ホステスがいそいそとスマホを取り出した。案の定、優香も、
「あら、私もLINEを交換してほしいわ」
と、主張してきた。やった。狙いどおり。そう来なくちゃ。大声を上げたいくらいだったが、僕はポーカーフェイスを装い、「いいよ」と言ってQRコード画面を差し出した。
それから小一時間もすると、榎本部長が急に席から立ちあがった。
「佐山。次の店に行くぞ、付き合え」
榎本部長が入り口に向かって歩き出すと、
「あら、お帰りですかぁ」
と、優香が追いかけてきて、榎本部長に腕を絡ませた。
「おうおう。葵(ヽ)で待っているから、お店が終わったら追いかけておいで」
榎本部長の目尻が、さらに下がった。そして、チェックを済ませることなくル・ジャルダンを出た。伝票を見ることさえせず、さっと店を出て行く榎本部長が、すごく颯爽として格好よく見えた。
酔っ払って足元をふらつかせた榎本部長の後についていくと、ル・ジャルダンの裏の小さなビルの三階にあるバー、葵に入った。
一〇坪程度であろうか、鰻の寝床のような細長い形をした古ぼけた店である。僕たち二人の他にお客は誰もおらず、七〇歳くらいと思われる白髪のお婆さんが一人、カウンターに座っていた。カウンターの内側には、背が小さくて腰の曲がった老人が立っていた。
「あら、榎本さん。いらっしゃい」
白髪のお婆さんが笑顔を見せた。それに応え、榎本部長と二人、座りにくい小さな椅子に収まると、ここでも「榎本様」と書かれたボトルが出てきた。
「この店のママさんとマスターはご夫婦なんだよ。マスターは、昔は有名なピアノ弾きだったんだ。ママさんは、有名クラブのホステスだったそうだ」
榎本部長に解説され、僕は水割りを作っている白髪のママに聞いてみた。
「へえ、そうなんですか。この店は、何年くらい営業しているのですか?」
「ええと、今年で三一年ですかね」
しげしげと観察すると、白髪のママの顔は皺ばかりが目立つが、若い頃にそうであっただろう美人の片鱗が残っていた。マスターのほうは八〇歳を過ぎている感じで、背が丸まって生気がなく、ようやく、といった様子で動いていた。二人が並んで立つと、マスターの背丈はママの肩にしか届かなかった。
三一年間も毎日、こんな小さな店の中で顔を突き合わせてきたのだろうか。それで続いていく夫婦とは、いったいどんな関係なんだろう。逃げたカミさんと僕が、こんなふうにいっしょに働いていたら、また違う関係が築けたのだろうか。いや、あの気が強くて可愛げのないカミさんのことだ。喧嘩ばかりになって、もっと早くに破綻していたに違いない。
一二時少し過ぎになって、葵に優香がやってきた。榎本部長が優香を送っていくことになった。
「じゃあな。優香は勝どきに住んでいるんだ。俺が送っていくから」
榎本部長は、そそくさと帰り支度をしはじめた。これから二人だけで濃密で楽しい時間を過ごすのだろうか。肩を寄せ合って夜の街に消えていく二人を、僕は侘しい気持ちで見送った。
まだ山手線が動いているはずだ。新宿まで行って、それから飲み直してもいいな。いや、今夜は真っすぐ帰ろうか。そんなことを思いながら新橋駅へ向かって歩いていると、スマホが鳴った。《もしよろしければ、これからいっしょに飲み直しませんか?》
優香からのLINEであった。
三 夢の時間
夢でも見ているのだろうか。目をこすってからもう一度スマホを見ると、それはたしかに優香からのお誘いだった。ほんの一〇分前に榎本部長と仲良さげに腕を組み、銀座のネオンの中に消えていったはずの優香。今頃は、榎本部長とねんごろになっているだろうと嫉妬していた、その優香からの急なお誘いである。
《どこで待っていたらいいかな? 適当な場所を教えて。》
キーをタップする操作ももどかしく返信すると、
《銀座グランドホテルの地下の、うら(ヽヽ)ら(ヽ)で待っていてもらえませんか。》
と返ってきた。
うら(ヽヽ)ら(ヽ)を検索してみると、ほんの六〇メートルほど先にあるうどん屋である。本当に優香が現れるのであろうか。狐につままれた気分で、うららの固い椅子に腰を掛けた。生ビールを飲みながらスマホをもてあそんでいると、優香が現れた。正真正銘、本物の優香であった。
「佐山さん、待っていてくれてありがとうございます。ちょっと飲み直しましょう。日本酒、冷やで」
ル・ジャルダンで出会ったときと同じ、優美な美貌と抜群のスタイルをゆっくりと眺めた。ただ、かなり酔いが回っている様子で、高く結い上げられた髪が無残に崩れ、肩にかかっている。マスカラも剥げ落ち、少々タヌキの目のようになっている。
「榎本部長は真っすぐに帰ったのかい?」
僕は、気になっていたことを尋ねた。
「そうです。いつも勝どきの私のマンションの前まで送ってくれるんです」
酒が運ばれてくると、優香は江戸切子の徳利を持ち上げ、まず僕のグラスを満たそうとしてくれた。だが、手がふらついて猪口から酒がこぼれた。
「ああ、ごめんなさい。私、ちょっと酔っているみたい」
優香は、水色のバッグからレースのハンカチを取り出した。
「気にしないで。大丈夫」
ハンカチを差し出した優香の左腕に、ダイヤが嵌め込まれた時計が輝いていた。これは見たことがあるぞ、このヘンテコな数字があしらわれた時計は、フランク(ヽヽヽヽ)・三浦(ヽヽ)だ。いやいや、フランク・三浦との訴訟に負けた、本家の有名ブランドのほうだ。よく観察してみると、レースのハンカチを取り出したバッグには、HERMESと刻まれている。真新しい水色の大振りなバッグだ。そうか、優香はやっぱり、「銀ホス」ってヤツなんだ。
「佐山さん、まあ飲んで」
優香が、また僕のグラスを満たした。
「優香さん、ちょっと飲み過ぎだよ。水を飲もう」
僕がそう言うと、優香は大きく首を横に振り、一気に日本酒を煽った。ル・ジャルダンで、いかにも銀座のホステスらしく礼儀正しい模範解答を繰り返していた優香とは、だいぶ雰囲気が違う。だが、そんなことは想定内だ。深夜のうどん屋で、客でもない僕に気取ったサービストークなんか必要ない。
優香から連絡してきたところをみると、僕のことを気に入っていることは間違いないだろう。どこが良かったのだろう。容姿だろうか。若さかな。喋りが面白かったからか。僕の顔がもともとタイプだったのかもしれない。どこに惹かれたかのかはわらないが、とにかく意外に好感度が高かったということだ。
「優香さんは何か嫌なことでもあったのかな? 憂さ晴らしがしたいの? 僕でよければ付き合うよ」
と、言ってみた。
「ありがとう。ちょっとね、いっしょに飲んでほしいの」
「誰でも辛いことはあるよね。仕事の悩みかな、それともプライベートで何かあったの?」
すると優香は、想定外のことを聞いてきた。
「ねえ、佐山さんの奥さんは、何をそんなに怒っていたの? 真夏にクーラーまで外して持って行くなんて、普通じゃないわ」
いきなり、ピンポイントに傷をえぐる質問が飛んできた。
「やっぱり、佐山さんの浮気がバレたとかなんでしょう?」
そこを聞かれると、僕だって日本酒を煽りたくなる。
「まあ、飲もうよ」
二人でしばらく日本酒を注ぎあっては、飲んだ。
「カミさんの家出の理由は、本当にわからないんだ。ちょっとの浮気はしたし、カミさんから金を借りて返さなかったこともあった。家事は手伝わなかったし、夏休みに旅行に連れていかなかった。家出の動機を数えだしたら、有り過ぎてキリがない。カミさんの本音を聞きたいんだが、ル・ジャルダンで説明したように、直接に話ができないんだよ。カミさんに好きな男が出来たのかもしれないって、最近ではそう思っている」
「へえ、そうなの?」
とにかく、こんな話題はこれ以上ゴメンだ。
「優香さんは、いつから銀座で働いているの?」
当たり障りのない質問で話題を変えた。
「大学生の頃にアルバイトをして、いちど就職したんだけれど、そこも楽しくなくて戻ってきたの。お金を貯めて留学するとか、資格を取るとか、そんなことも考えたんだけど」
「お酒は好きなの?」
「そうね。お家に帰ると冷蔵庫に直行して、缶酎ハイをプシュッって開けるの。それをしないと家に帰ってきた気がしないわ」
やがて芸能界の話題になった。優香は、最近のマスコミの不倫報道について全くもって不満だと力説を始めた。
「不倫報道で芸能界を終わる人や政治家人生を終える議員さんもいるのに、全く問題にならない人もいますよね。ベッキーと、小泉今日子と、山尾志桜里と、どこがどう違うのかな。佐山さんは、そこのところ、どう思うの?」
それまでの会話では、僕の質問に短い返事しか返してこなかった優香が、芸能人の不倫話になったとたん、怒涛の勢いで喋りだした。まさか、芸能人の不倫ネタで盛り上がるとは思わなかった。
四 ヒロイン降臨
時計を見ると、二時半になっていた。僕は明日の朝、会議の予定が入っていたことを思い出した。
「そろそろ帰ろう。家まで送るよ」
御門通りに出ると、空車のタクシーが列をなしていた。
「ええと、勝どきのどのあたりなの?」
ふらつく足で僕の左腕に右手を絡ませていた優香は、想定外の地名を口にした。
「あ、そうそう。今日は厚木に帰りたいの」
「ええっ、厚木って、神奈川県の厚木のことかい?」
「一週間前までは勝どきに住んでいたの。でも、パパに追い出されちゃったっていうか、飛び出してきたのよ。キーカードを投げつけてやったわ。だから、もうお部屋には戻れないの」
「ええっ、パパって、血の繋がったお父さんのことじゃないよね」
咄嗟にそう言ってしまってから、自分の安易な発言に舌打ちした。この場面で、なんてくだらないことを聞いてしまったんだろう。優香は、何も答えないで、僕を睨みつけてきた。大きな目がさらに見開かれて、何とも綺麗だ。優香は怒った顔のほうが何十倍も綺麗なんじゃないか。
「佐山さん。ねえ、厚木まで送ってちょうだい」
「厚木までタクシーで送っていく奴なんか、いないだろう。とにかく、厚木なら始発を待つしかないな」
はっきりと断った。この時間に新橋から厚木までタクシーで行ったら、いったいいくらになるのか。いや、お金の問題じゃない。このタイミングで厚木まで送れとは、人を馬鹿にするにもほどがある。だいたい、何百万円もする時計やらバッグやらを持っている優香は、僕よりずっと金持ちのはずだ。自分で帰ればいいじゃないか。たぶん、僕は馬鹿にされているのだ。この場面で無理をして厚木まで送って行ったら、この女はつけあがるだけだ。多少は、世間の相場を教えてやるべきだ、と思った。
「じゃあ、僕は帰るよ」
タクシーを止め、僕だけ先にタクシーに乗り込んだ。
そしてタクシーが動き出したとき、ガラス越しに、優香が道路に崩れ落ちていくのが見えた。
「わあっ。運転手さん、止めてくれ!」
僕はタクシーから飛び降り、道路に無防備に横たわっている優香の側に駆け寄った。こんなに酔っている優香を放置して帰ることは、さすがにできない。優香の腕を自分の肩にまわして担ぎ、タクシーに押し込んだ。
「厚木!」
僕は、やけくそで怒鳴った。
「え、厚木? ええと、お客さん。厚木って、神奈川県の厚木ですか?」
運転手が驚いた様子で聞き返してきた。
「そう、神奈川の厚木だよ。この女の子を送っていくから、頼むよ」
厚木まで三万円くらいかかるだろうか。それから四ツ谷のマンションに引き返して往復六万円か。自腹で、カードで払うしかない。榎本部長に相談して、経費で落としてもらえないだろうか。いや、無理に決まっている。とてもじゃないが、言えない。今月買おうと思っていた炊飯器もテレビも、お預けだな。
「優香さん。厚木の、どのあたり?」
聞いてみるが、優香はすっかり酩酊している様子で、僕の腕に頭を埋めて深い眠りに落ちている。
「とりあえず、JRの厚木の駅を目指してください」
「じゃあ、汐留から高速に乗りますよ」
「そうしてください」
そのとき、急に優香が目を開けた。
「ねえ。厚木じゃなくて、今夜は佐山さんの家に泊めてちょうだい」
「ええっ」
「だって、厚木までなんてあまりにも申し訳ないから。始発で帰るから、それまで佐山さんのお家に置いてちょうだい」
たしかに、僕のマンションに優香が来てくれるなら大助かりだ。これから厚木まで行って帰ってきたら、出社するのにシャワーを浴びる暇さえないかもしれない。そのうえ、カミさんが家を出て行ってからというもの、家財の調達に手痛い出費が続いている。ここでの厚木往復のタクシー代を払えば、給料日までカップラーメンだけの生活が続くことになるのだ。
「じゃあ、四ツ谷に」
タクシーの運転手に再度、行先変更を告げた。
これは、夢を見ているんじゃないか。夢なら覚めないでくれ。いや、夢でもいい、何でもいいさ。突然訪れた僥倖に有頂天になっていると、ふと、優香のパパのことが気になった。いったいどんな奴なんだろう。小太りの禿オヤジか、白髪で腰が曲がった爺さんか。とにかく僕とは正反対のタイプだろうな。金持ちだがヒヒ爺に決まっている、と自分勝手に都合よく想像した。
だがさっき、「血の繋がったパパ」などという失言をしてしまった僕である。その種の発言には、慎重に知恵を絞ることにした。そして、考えていたこととは全く反対の言葉を口にした。
「優香さんのパパって、どんな人なのだろう。きっと凄い人だろうな。政財界の大物とかかい?」
聞こえているのかいないのか、優香は、僕の肩に深く頭を埋めたままだった。
四ツ谷のマンションに着くと、優香に肩を貸して僕の部屋に運んだ。
台所の横に、汚くて臭い万年床のせんべい布団がある。先月、ドンキホーテ(ヽヽヽヽヽヽ)でいちばん安い寝具を買ってきて、奥に運ぶのも面倒だったので玄関に近いところに敷いたのだ。優香を、なるべくそうっと降ろしたつもりだった。だが実際は、かなり手荒く投げ出すような形になってしまった。
布団は、かなり臭いと思う、僕の加齢臭と汗の臭いで、優香の鼻が曲がってしまうかもしれない。だが、他に選択肢はない。
風呂場から洗い立てのバスタオルを持ってきて、優香の身体に掛けた。優香は気持ちよさそうにぐっすり眠っていた。頬が可愛らしいピンク色に輝いている。この顔色なら大丈夫そうだ。
僕はスーツを脱ぎ、寝間着にしているTシャツとスラックスに着替えて台所の隅に横になった。その場所は、カミさんが家出した夜に一人で寝たのと同じ場所だった。けれども、気持ちはあの夜とは正反対である。天にも昇りそうな高揚感に包まれながら眠りに落ちた。今夜は、あの夜のような熱帯夜どころか、冷暖房などまったく必要のない爽やかな秋の夜であった。
目が覚め、とっさに万年床を見ると、優香はまだ寝息をたてていた。朝の光の中でみる優香の寝顔は、まさに天使だった。神の領域というべき、完璧な美しさを湛えていた。二次元のマンガのヒロインが、そのまま僕の家に舞い降りてきたようである。
優香のすらりと伸びた足の先に、彼女のエルメスのバッグが落ちていた。蓋が開いて、中身が少しはみ出している。その中に、ゴルフのクリップマーカーが見えた。ふと気になって手に取ってみると、「ホールインワン 2017・6・14 大阪CC」と書かれていた。クリップマーカーはガラス製で、表面には「Y」の文字が彫られていた。どこかで見たことがあるぞ。そうだ、これは、榎本部長が使っているクリップマーカーとまったく同じ物だ。去年の暮れに、取引先のゲーム会社の会長がホールインワンを達成した時に配られた、と言っていた。自社が主催するトーナメントのプロ・アマ戦のときに、会長自らがホールインワンになってしまって大層な出費になったらしい、と榎本部長から聞かされたっけ。優香のお客にあのゲーム会社の人がいるのか、それともプロ・アマ戦に出場していた人にお客がいるのかもしれなかった。
時計を確かめると、六時三〇分だ。そろそろ会社に向かわなくては会議に遅刻してしまう。シャワーを浴び、スーツを着て家を飛び出した。それから優香にLINEをした。
《起きたら鍵をかけずに出て行っていいよ。どうせ何もないんだから。》
その夜のこと。早めに自宅に戻ると、カレーライスが用意されていた。優香はテーブルの代わりにアマゾンの段ボールをひっくり返し、そこに花柄のテーブルクロスを敷いていた。その上に、新しい白い皿とスプーンが置いてあり、傍らの小皿にレーズン入りのコールスロー・サラダが添えられている。缶チューハイも用意されていた。
「ええっ、皿もスプーンも鍋も、みんな買ってきたのかい?」
「そこのドンキホーテで揃えたの」
優香は笑って答えた。
「昨日のお詫びです。昨日は、本当にごめんなさい。そろそろ出勤しなくちゃ」
支度を整え部屋を出ようとする優香に、僕は聞いた。
「今夜は、厚木の家に帰るの?」
「自宅にドレスがあるから、帰らないと。でも、あの……終電を逃しちゃったら、ちょっとまた、あの、ここに置いてもらえないかな」
優香は遠慮がちに訴えた。
その日から、僕の夢のような日々が幕を開けた。優香と僕の、同居生活と呼ぶべきか、ハウスシェアリングと呼ぶべきか、奇妙な共同生活が始まった。奥の部屋が優香、手前の台所に近い部屋が僕の場所だ。
優香が買ってきたり、実家から運んできたりで、僕の家に少しずつ品物が増え、人間の住む家らしさが戻ってきた。まずは、布団が一組運ばれてきた。安物のせんべい布団ではなくて、トゥルースリーパー(ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ)のマットであった。それから、ふわふわしたピンク色のバスタオルとフェイスタオル。風呂場には、明るい色使いのシャンプーやボディソープ。風呂場の横の地味な洗面台には、資生堂やらシャネルやらのロゴが入った高級そうなクリームや化粧水が並べられた。
いつの間にか食器の数が増え、僕の優香の夫婦茶碗まで揃えられていた。優香は料理をするのが好きらしく、その腕前はプロ級であった。
「スタイルと肌の健康のためには、何よりも、食が大事だと思うの」
優香は、片目をつぶって見せた。
そんな幸せなある日のこと。カミさんから書類が届いた。茶色の封筒を開けると、僕の家に出入りしている優香の写真が入っていた。どこから撮ったのだろうか。マンションの部屋から出て行く優香が、ドラマの一場面かと見間違えるほどの構図で、鮮明な画像で撮られていた。そして、その写真の横に、例の弁護士の名刺がクリップされていた。
絶体絶命だった。この共同生活というべきかハウスシェアリングというべきか、とにかく優香といっしょに住んでいるところを押さえられては、どうしようもない。すべてカミさんが出て行った後のことだ、と主張しても、とても信じてもらえないだろう。僕は覚悟を決めた。
カミさんが送ってきた書類には、何をどうしろ、という指示めいたメモのようなものは何もなかった。仕方なく、僕は弁護士に電話した。翌週に、事務所で会うことになった。
五 理由
虎ノ門にある弁護士事務所は、戦前の建物かと思うほど古ぼけたビルの一室だった。
「ま、お座りください」
カミさんの顧問弁護士は、五〇代後半ぐらいだろうか、ひょろりと背が高く痩せていて、わずかに残っているグレーの頭髪をオールバックに撫でつけていた。
「写真は、ご覧になっていただけましたか?」
僕はうなずいた。早く本題に入りたかった。
「それで、妻は何を望んでいるのでしょう?」
「離婚を望んでおられます」
弁護士は、事務的な口調で言った。「離婚」という言葉がこれほど強く胸に突き刺さるとは、想像していなかった。本当に、心臓のあたりがきりりと痛んだ。
「それで、あの、慰謝料とかを請求されるんでしょうか」
「依頼人は、慰謝料は請求しない、とおっしゃっています」
「えっ」
信じられなかった。家から一切合切を引き上げて出ていくほどの凄まじい怒りを発しながら、その一方で慰謝料を請求しないとは。それに、マンションの入り口に張り込みまでして優香の写真を撮るほどの執念深さは、いったい何だったのか。
「とにかく依頼人は、今後一切接触を持たないことを条件に、離婚届に押印することを求めています」
キツネにつままれたような気分だった。慰謝料を請求されなかったのはラッキーだったとはいえ、それではカミさんが出て行った理由がよけいに気になるではないか。やはり、男ができたとか、そういう理由なのだろうか。
「あの、ひとつお尋ねしてもいいですか」
「何でしょう」
「カミさんは……、いや妻は、なんで僕と別れたがっているのですか」
弁護士は、僕の目を真正面から見つめて言った。
「それを聞かないことも、離婚の条件として挙げられています。ですから、お答えできません」
がっかりだった。離婚はもう仕方がないことだとしても、理由ぐらい教えてくれてもいいではないか。無性に寂しく、やるせない気分だった。すっかり冷たくなった秋風が強く吹いていた。どこからか風に飛ばされてきたレジ袋が、顔に張りついた。情けなくて、涙がこぼれた。
すっかり落ち込んだ様子で帰ってきた僕を、優香が出迎えてくれた。
「どうだった? 奥さん、何だって?」
「離婚したいって。慰謝料は、いらないんだって」
「ふうん、そうなの。やっぱり、私がここに来たせいかな」
「いや。優香のせいじゃないよ」
優香のことは、離婚の口実に過ぎないような気がする。優香が原因だというのならば、慰謝料を請求しない理由がわからない。
「ご飯、作っておいたから食べてね」
そう言うと優香はエプロンをはずし、出勤の準備をしはじめた。離婚を突き付けられたことは確かにショックだが、優香がいっしょにいてくれるという事実が、そのショックをかなり和らげてくれていた。優香がいなければ、僕はいまごろ自棄(やけ)を起こしていたかもしれない。僕は、幸せ者だ。もう離婚の理由なんかどうでもいい、と思った。
それから一か月が経った、ある日のことだった。僕が出張から戻って家に入ると、いつもと様子が違っていた。なんとなく空気が冷たいというか、人の温もりが感じられなかった。電気をつけてみると、そこには何もなかった。部屋の中には、まさにあの時と同じ、『もぬけの殻』状態が広がっていた。
「えっ、何で」
思わず、声が出てしまった。ふと見ると、部屋の床の上に手紙のようなものが置いてあった。封筒の中には、優香からの置き手紙が入っていた。
《もうガマンができないから、出ていきます。佐山さんの歯ぎしりは家中に響き渡るほど大きく、私はぜんぜん眠れません。ここへきてから、ずっと寝不足です。奥さんは、よく一〇年も我慢したと思います。私が思うに、離婚の原因は佐山さんの歯ぎしりです。家財道具は、慰謝料代わりにもらっていきます。》
文面を見つめながら、僕は叫んだ。
「何でだ! 歯ぎしりぐらいで、何で!」
手紙には、続きがあった。
《女は、いったん生理的にダメだと思ったら、もう絶対ダメなんだよ。お世話になりました。さようなら。優香》