会員限定ページへログイン

二年ぶりの銀座・1

2022/09/30

夜の銀座の街へ足を踏み入れるのは、2年振りだ。「ル・ジャルダン」を卒業した日からこれまで一度も銀座に遊びに来たことはなかった。

2年前、私は“舞子”という源氏名で、売り上げナンバー15ほどが定番のホステスだった。売れっ子を目指していたのだけれど一昨年の暮れに寿退社を決意した。
2020年、非常事態宣言が解除になってからも銀座の本来のお客である接待族は戻ってこなかった。当時、コロナ禍に強いホステスと弱いホステスとに極端に分かれたのだったが、私のお客の殆どがコロナを理由に来店しなくなった。
比較的にも若い年齢層の自営業のお客に対応できるホステスしか生き残れない状況の中、必死に喰らいついてはみたけれど、私は不器用で力不足だった。
とはいえ、私の最終日には、別れを惜しむお客がやってきて何本もシャンパンやワインが開いたものだ。せめてもと贈られた蘭の鉢や立花は、飾る場所が足りなくなってエレベーターホールにまで溢れていた。

今夜は、昔馴染みのお客の長本さんに呼ばれて久し振りに銀座へやってきた。
「ル・ジャルダン」の26周年のオークラでのパーティーに出席できなかったので、その詫びに行くのだと言う。
「舞子ちゃんも付き合ってくれよ。ママにお祝いを言ってやってよ」という長本さんの誘いに乗ったのは、ママに挨拶したかったことと、最近の旦那との不協和音も理由の一つである。私なりに自分の原点に立ち返ってみたい気持ちがあった。

「ル・ジャルダン」を卒業してから、水商売上がりで30歳過ぎの私にしては、理想的な相手と籍を入れた。だが、この半年ほどは、旦那と歯車が噛み合わないまま冷たい空気が流れている。
長本さんには当然として、ママやホステスに家庭生活の愚痴を口にすることなど有り得ない。そんなに惨めで悔しい真似はできはしない。今夜は、幸せいっぱいの舞子を演じ切ることを決意している。

待ち合わせの「あい田寿司」に向かう道すがら、銀座の街の変貌に愕然とした。コロナ禍で打撃を受けたと聞いてはいたが、馴染みの見番通りは無くなっていた。
函館金寿司、和食の丸、フラワーショップ・サリー、Bar岩田、チーズ専門店も洋服屋も無くなっている。路面店にまで空き店舗が目立っている寂しさに言葉がない。

うらびれてしまった街並みは、私のメランコリックな感情を熱く刺激した。
銀座という街の独特で摩訶不思議な空気感はいったい何なのだろう。日が落ちて暗くなるまでの逢魔刻に、強烈な魔法に掛るのがこの街だ。喧噪と夢と希望が渦を巻いて力強く人々を巻き込んでいく。
以前より煤けて見えるBarビル群だが、看板のネオンに灯りが点ると急速に私のテンションも上がっていった。

 約束の時間の5分前に「あいだ寿司」に付いたが、長本さんは、到着していなかった。
「舞子さんなの?あらまぁ、お久し振りじゃないの?!いらっしゃい」
 あい田寿司の女将は、以前と同じように満面の笑みで私の名前を呼んだ。相変わらずに深い色の大島に小じゃれた帯を締めている。
「女将さんは、私のことを覚えていてくれたのね。凄い記憶力ですね。」と感心すると
「まぁ、忘れる訳がないじゃないですか。舞子さんどうしているかなって、長本さんにもいつもお伺いしていたんですよ。こちらのお席へどうぞ」と案内された。

女将が指し示したのは、鰻の寝床の形をしているお店のカウンターの一番奥の席である。
長本さんのお気に入りの定番席で、この席が用意されていないと機嫌が悪くなったものだ。
「舞子さんのお飲み物は、いつもので宜しいですか。長本さんを待たないで、先に飲み初めて良いんですよね」と女将が聞いてくる。
「はい、お願いします」と答えると
「焼酎のソーダ割り、一丁!」と女将は大きな声でオーダーした。
けれども私の目の前に運ばれてくるのは、焼酎は入っていないで氷だけが入った炭酸水である。
女将は、2年も音沙汰のない私の名前もお気に入りの飲み物も覚えていてくれたのだ。こんなに有難いことがあるだろうかと温かな気持ちが込み上げてきた。

長本さんは定刻にやってきた。
「やぁ、舞子ちゃん、わざわざ来てくれてありがとうな。久し振りだな。ちっとも変わらないな。」と、長本は私の顔をしげしげと眺めてから、
「舞子ちゃんは、変わらずに抜群の美人さんだ。いや、ぐっとずっと色気が増しているぞ!」と快活な大きな声で言った。
「大将!今日は、何がお勧めかい。舞子ちゃんに美味しい寿司をいっぱい食べさせてやってくれ!」

長本さんは、2年前よりも頬に肉が付き腰回りが重そうになったようである。だが、さも旨そうにビールを飲み干す手付きと顔付きは昔のままだ。

「あい田」のカウンターの一番奥のこの席で、長本さんは数えられないくらいに何度も同伴をしてくれた。真夜中に二人で訪れて言い争いになって、女将が取りなすのも振り切って別々に店を出た夜もこの席だった。

長本さんと私は何度も喧嘩をして、疎遠になった時期もあったけれど、腐れ縁のように続いている。
「始まらないから終わらないのさ。つまり、俺と舞子は、男と女になってないから終わらない」と、長本さんは口癖のように言っていた。
「そうね、長本さんとそんな関係になりたいけれど、長本さんモテますからね」と模範解答を返したものである。

久し振りに酒を酌み交わした最初の小一時間は長本さんの近況を聞かされた。家業の建設関係の仕事は好調な様子である。
「ル・ジャルダン」については、私の次の担当として千春ママを指名したのだったが、千春ママが退店したので、今はミッシェルが担当だと説明を受けた。
「千春ママは、昔から長本さんの大ファンだったですものね。私が担当させて頂いたときから、ずっと長本さんを狙っていたのは分かっていました。だから千春ママには納得です。でも、その次の指名がミッシェルだなんて吃驚しました。
半年くらい一緒にお仕事していましたけれども、あんまり気が利かない娘だったな、お喋りのできない地味な娘だったなと思い出していますけれど。」と、率直な感想を伝えた。
「ミッシェルは、急成長しているよ。またアドバイスとかしてやってくれ。」と言った後に、長本さんは突然に
「ところで、舞子ちゃん。旦那さんとは、どうなっているんだ。幸せにやっているのか?」と、私の話題に振ってきた。
私にとって数少ない上客の長本さんであったから、私の口から寿退社であるとは伝えていない。卒業式だからと最後にあれだけ派手にお祝いをしてもらっておいて、他の男と幸せになりますとは言えなかったのだ。
とはいえ、いずれホステス達の噂話から長本さんの耳に入ることは分かっていた。
「やっぱりご存知だったんですね。黙っていてすみません。」
「舞子ちゃんが俺の招待を受けて銀座に出てくるくらいだからさ、離婚したとか、離婚のカウントダウンが始まったとかないのかい。俺は、そこを期待していたんだがな」と、長本がおどけた調子で聞いてきた。
「いえいえ、まぁ、何とかやっています。」
「フーン、そうか、」長本さんは微妙な空気を察したようで
「まぁ、舞子ちゃんが主婦業とアルバイトくらいしかしてなきゃ暇を持て余すだろうよ。俺の愛人になりたくなったらいつでも言ってくれ。」と言った。 
「嬉しいです!長本さんが丸抱えで面倒を見てくれるんですか?」
「そうだなぁ、舞子ちゃんが一人で食べていけるように手助けしてやるよ。お前には忙しく働いているほうが似合うんじゃないか。とにかく舞子ちゃんが幸せになるように俺が考えてやるさ」と長本さんが言った。
愛人契約として一ヶ月に幾ら支払うとかではなくて、恋人となった女性が一生一人で生きていけるように徹底的に面倒を見ることが男の責任だと考えていると、長本さんは力説した。
長本さんがこういう言い方をしてときは本気であって信用が出来ると思っている。パパ活をしたいホステスさんは、歯牙にもかけない提案だろうけれども。

「あい田」でお茶を飲み終わってから8時少し前に「ル・ジャルダン」に向かった。
久し振りの3階は、入口の長い廊下が黒色の石から白い石に代わっていて明るい印象になっていた。
店に入った途端に私の胸に沸き立ってきた高揚感に意表を突かれた。まさかこのタイミングで、お客を前にしたときだけに噴出してくる感覚を、身体の奥から突き上げてくる熱いエネルギーの衝動を感じるとは、予想だにしてなかった。
夜のクラブの独特なざわめきと緊張感が私の心を揺らしている。やはり美容院で髪の毛をセットしてくれば良かったと、ふと思った。

佐々木店長に奥の左端の席に案内されると、見知らぬ顔のホステスが二人やってきた。二人とも20代前半だろう、あどけない顔をしている。
「長本さん、とっても綺麗な方をお連れなんですね」と一人のホステスが定石通りのお世辞を言ってきた。
長本さんのボトルは、以前と同じ山﨑のノンビンテージである。
「何をお飲みになられますか?」と聞かれて「薄めのハイボールを」と答えたが、濃い色のハイボールが供された。
若いホステスが飲み方を尋ねないまま水割りを作っているところを見ると、長本さんは最近も頻繁に店に通っているのだろう。

「舞子さん~っ!」と大きな声で呼ばれて、派手なドレスの女が私の隣りに飛び込んきた。
ストレートの長い髪をハーフアップにして、抜群のスタイルを強調する赤いドレスを着たその女が、いったい誰なのか分からなかった。2年間に私のヘルプとして拙いながらも懸命にお喋りしていたミッシェルだと気が付くまでに、暫く時間が掛かった。
「長本さんが連れて来てくれると仰っていたのですけれど、舞子さんに目に掛かれて嬉しいです。あの頃は、舞子さんにご迷惑をお掛けするばかりで、ちっともお手伝いできなくて、すみませんでした。」と、ミッシェルが挨拶してきた。

「ほら、この方が、この前にお話ししていた舞子さんよ。売れっ子さんだったのだけれど皆に惜しまれて卒業したのよ」と、ミッシェルが、私を紹介した。
二人のホステスは、目を輝かせて
「あなたが、舞子さんなんですね。」
「他のお客様からもとても美人な方がいたってお話しを聞いていました。想像していたよりお若いです。」などと口を揃えて私を褒めそやした。

「ミッシェルちゃんは、綺麗になって見違えたわ。すっかり大人っぽくなったのね」と私が言うと
「はい、いろいろとマジ頑張ってます」と、ミッシェルはくったくなく答えて、
「舞子さんには、今でも感謝しています。舞子さんがヘルプとして私を呼んでくれなかったら、とっくにクビになっていました」と私の目を見て頭を下げた。

 観察してみると、ミッシェルの目の二重瞼の幅が太くなっている、歯が異様に白く輝いているのも多大な出費をしたからだろう。
何よりも変わったのは、ミッシェルの派手な化粧と装いである。7~8㌔は減量したであろう身体の線がタイトなドレスに映えている。左手にはプラチナのカルチェの腕時計と3連に輝くトリニティリングの指輪が輝いていた。

ミッシェルには余程の太客が付いたのだろうと思った。それが長本さんでないことだけは分かる。おぼこくて地味でシャイだったミッシェルを、これほどに激変させたのは、いったいどんな男なのだろうか、顔を見てみたいと興味に駆られた。

お店で飲むハイボールには、容赦なくアルコールが含まれていて、酔いが身体に回るのを感じた。
久し振りにお店でお酒を飲んでみると、懐かしい感覚が蘇ってきた。お店で接客をしながらお酒を飲むときだけの、特殊な酔い加減があるのだ。
私は、体質的に分解酵素がないようで、プライベートで気を抜いたときのお酒ならビールをコップに一杯でも直ぐに眠ってしまうくらいなのだが、お店で仕事として飲むお酒では、そうそう酔わない。
「酒を殺して飲む」という言葉があるが、それに近いのかも知れない。飲んでも酔わない、気持ちよく酔っているけれども、他人を不愉快にさせるような言動は有り得ない。

お店で飲むお酒による多幸感や開放感は、目の前のお客を喜ばせるだけに使われる。
世辞を言われながら飲む酒よりも、世辞を言い気を使いながら飲む酒のほうがはるかに美味しいものなのだ。
お客を前にして飲むときの夢見心地な高揚感は、自分の好きなように酔っ払っても大丈夫な場面では決して味わえない種類のものだ。

 ふと、旦那のことを思い出した。
旦那と二人でお酒を飲んでも楽しくないと改めて実感してしまう。家で一緒に晩酌しても味気なく、外食して上等な酒を飲んだところでこの躍動感も解放感も到底味わえない。

旦那とは「ル・ジャルダン」で出会って、同伴やアフターに付き合う程度のお客とホステスの関係として始まった。40歳を過ぎた×ゼロの独身男が、早い段階から結婚を匂わせることが鼻に付いたものだった。
旦那は、顔もスタイルも見栄えがしないし、二代目社長であるが会社が羽振りが良いとは言えない。ただ、いかにもボンボン育ちで優しくて穏やかな人ではある。
水商売に長い私には、どこか頼りなくて物足りない一面を出会った当初から感じてはいたのだった。

「舞子さん、ちょっと他のお席にご挨拶に行ってきます。失礼します」とミッシェルが、グラスを掲げると席を立っていった。
長本さんがミッシェルを目で追っている。
「どうだい、ミッシェルは、急成長しただろう」と長本さんが聞いてきた。
「女の子って、蛹が蝶になるみたいに完璧な変身ができるものなんですね。最初は、誰だか分からないくらい痩せて綺麗になっていて驚きました」と素直に言った。
長本さんはニヤッと笑うと黙ったまま乾杯の仕草でグラスを持ち上げた。長本さんの半分ほど飲み干された水割りのグラスに、自分のグラスをカチンと大きく音を立てて合わせた。

 20時を過ぎると同伴出勤のホステス達がやってきて、店内は、急に慌ただしく華やいできた。2年前に同僚だったホステス達が、私がいることに気が付いて嬌声を上げたり、大手を振ったり、指を差したりしている。

冬ちゃんの“酔っ払いキャラ”は、今の健在のようだ。同伴出勤してきたばかりなのに、もう酩酊した体裁でお客に身体を密着させている。
芳江さんが、遠くから優雅な物腰で私にお辞儀をしてきた。芳江さんの着物は、いつだって白系統だ。今夜も豪華な刺繍が施された白地の着物に白っぽい帯を締めている。
ランちゃんと山口さんは、今日も同伴で出勤してきている。10年以上も続くホステスとお客は珍しいが、未だにラブラブの仲良しのようである。お互いに飽き飽きしないのだろうと面妖で理解不能であるが、余程に気が合う二人なのだろう。
陽子さんが、斜め向かいから私に向かって千切れそうに手を振っている。その隣に座っているのは、見知らぬ顔のお客である。陽子さんは「珍獣使い」で有名だから隣のお客も紳士に見えて珍獣に間違いないだろうと当たりを付けた。
陽子さんのモンスター客を扱う手腕には、誰もが一目も二目も置いている。他のホステスが担当すると暴走するブラックリストのお客でも、陽子さんが扱うと皆一様に大人しくなって良いお客を演じるようになるのだった。

「ル・ジャルダン」の古株のお姉さん方が、コロナ禍を乗り越えられなくて銀座を去って行ったと聞いている。千春ママ、ゆいママ、あやなさん、弓子さん、美香さん、それぞれに一世を風靡した売れっ子だった。
 けれど「ル・ジャルダン」に残って頑張っているホステスも多いことに安堵した。冬ちゃん、芳江さん、ランちゃん、陽子さん、皆がくったくのない明るい笑顔を私に向けている。
 先ほど歩いてきた見番通りや並木通りの変貌と錆びれ方に比べたら「ル・ジャルダン」は、奇跡のオアシスであると感じるのだ。
 
22時近くなって、私が化粧室に立ったときのことだ。白い長い廊下で一人の男と目と目があった。小柄だが精悍な体躯、獲物を狙う猛禽のように冷たい目をした男である。
私の心臓がドッキンと大きくゆっくりと音を立てて打つのを自覚した。
藤井寺さんである。
私が「ル・ジャルダン」を退店した理由の半分は、コロナ禍。もう半分は、この藤井寺さんにあったのだ。

藤井寺さんも私に気が付いて、驚いたように眼を見開くと「よう」と右手を上げてきた。
まさか、このタイミンングで藤井寺さんと鉢合わせするとは、全くの想定外である。
不意打ちのパンチをくらったように動揺して、思わず手に持っていたセカントバックを取り落としてしまった。
藤井寺さんは、私のセカンドバックを拾う素振りで腰をかがめようとしたのだが、私は、さっと自分のカバンを掴み上げた。
「舞子、舞子だよな。ここで逢えるとは、驚いたな。」と藤井寺さんが話し掛けてきた。
「26周年のお祝いをママに言いに来たのです」と、無理やりに笑顔を作ってみるが、自分の声が震えていることが情けなくも腹立たしくも思った。

「お客様とご一緒ですので、すみません」と言い繕って、その場を離れようとすると、藤井寺さんの右腕に抱き着いてきた女がいた。
藤井寺さんの肩に親しげに頭を押し付けて甘えた仕草を見せつけてきたのは、赤いドレスのミッシェルだった。
なるほどと、その場で一気に合点がいった。ミッシェルを艶やかに変身させて、大輪の銀座の花として開花させているは、藤井寺さんではないのか。

つづく。
次回号は、10月3日にアップします。


TOP