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父子

2020/10/12

年が明けた。一月初めのル・ジャルダンの店内は閑散としていて、空席が目立っていた。十二月の活気に溢れていた頃に比べると、同じ店とは思えなかった。向こう側の壁が簡単に見渡せる店内は、急に狭くなったように感じられた。

真央はどの席からもお呼びがかからず、一人ぽつんと店の隅に座っていた。これで二日連続のお茶っ引きだ。十二月はそこそこの成績を上げることができて気分も上々だったが、一月は苦労しそうである。

でも、私の実力はこんなものじゃない、と真央は自分に喝を入れた。今まで成績が振るわなかったのは、母親の役割を優先してきたからだ。息子の勇人も小学三年生になって手を離れてきたのだから、そろそろ本気を出さなくちゃ、と拳に力を込めたとたん、店長に呼ばれた。

「真央さん、七海ママがお呼びです」

七海ママが私を呼ぶなんて珍しいなあ、と訝しく思いながら立ち上がった。

真央が呼ばれた席では、三〇代から四〇代初めとおぼしき若いお客が賑やかに飲んでいた。育ちの良さそうな五人の若者たちの隣には、それぞれに若いホステスがついていた。

真央は年配の客が好きだったし、若い団体客の席は苦手である。私なんかを呼んで大丈夫なのだろうか、と戸惑っていると、

「真央さん、ここよ。この人のお隣に座ってちょうだい」

と、七海ママが真央の腕を引っ張った。

「ねえ、真央さん。この人、誰だと思う?」

七海ママは、若い客の中でもいちばん年下と思われる若者の肩に手を掛けた。その若者は長い足を窮屈そうに折り曲げて座っていた。小さな顔に整った目鼻立ちをしていて、人目を集める美しい容姿の持ち主であった。

「ええと、ええと、以前にお会いしていますかしら。こんなに格好いい人を覚えていないわけがないのですけれど。竹内涼真さんに似ているってよく言われませんか? いや、キスマイの藤谷さんかなあ。ええと」

真央は必死に言葉を繋いだ。賑やかに盛り上がっていた席が急に静かになって、五人の若者と彼らを取り囲んだホステスの総勢一三人の視線が一斉に自分に注がれているのを感じた。これだけの注目を集めているのだから、と懸命に記憶を手繰ってみるが、まったく心当たりがない。

「真央さん、この方は、東山さんの息子さんなんですって。ほら、真央さんが〝係〟だった東山ジョージさんの!」

七海ママが種明かしをした。

「えっ、ええー!? 似てないっ。本当にジョージさんの息子さんなんですか? まったく似てないです」

真央が思わず大きな声で叫ぶと、若者とホステスたちから爆笑に近い笑い声が上がった。

「やっぱり、真央さんでもわからないよね」

「面影の一つも、ないもんな!」

若者たちは、口々に言い合った。

ジョージさんとは、真央がル・ジャルダンに入店して最初に〝係〟を務めたお客だった。しかし、このジャニーズ系のイケメンがジョージさんの息子とは、真央にはどうしても信じられなかった。ジョージさんの背丈は、一六〇センチに少し足りないくらいだった。足が太くて短く、大きな腹を揺すりながら歩いていた。猪のように首がなく、大きな目と鼻が顔の真ん中に胡坐をかいていた。

「東山さん、この真央さんが、お父様の〝係〟だったのよ」

七海ママが紹介すると、東山は、

「その節は、父がお世話になりました」

と言って名刺を差し出した。「東山工業株式会社」という、真央にとって懐かしい会社名の下に「代表取締役 東山達也」とあった。

「お父様には、とても可愛がっていただきまして」

真央も慌てて自分の名刺を差し出した。

「ジョージさんは、よく息子さんの自慢話をなさっていました。『俺の息子は、俺に似ないで男前だぞ。優秀で真面目で酒も女も興味がないらしい』っておっしゃっていました」

「ははは、そうですか」

東山の息子は笑顔になった。笑った時の涼しげで大きな目元に、ほんの少しだがジョージさんの面影があるかもしれない、と真央は思った。

「お父様は、お元気でしょうか?」

真央が聞いた。

「今でも車椅子ですが、たまには会社に来ていますよ」

「わあ、会社にいらっしゃれるくらいに回復なさっているのですね。よかった」

ジョージさんが脳溢血で倒れて生死の境を彷徨っていると聞いてから、もう六年が経っていた。

「父は、ここでも馬鹿みたいに飲んでいたのでしょう。ご迷惑をお掛けしたんじゃないでしょうか」

「いいえ、そんな、とんでもありません。ジョージさんは豪傑でいらして、とっても優しい方です。右も左もわからない新人だった私が何とかル・ジャルダンに置いてもらえたのは、ジョージさんの〝係〟にしてもらえたからなんです」

すると、東山の隣に座っていた若者が二人の会話に茶々を入れた。

「ジョージさんが倒れたとき、こいつがオヤジの飲み屋のツケを清算したんですよ。たいへんな額だったそうです」

「そうだったのですね。あのときジョージさんの奥様からご連絡をいただいて、売掛けの代金はすぐにお支払いする、とおっしゃっていただきました」

すると、東山がそつなくフォローした。

「いやいや、ル・ジャルダンさんは少ないほうだったと思いますよ。父が倒れたときに支払った飲み代の総額は、とても恥ずかしくて言えません」

爽やかな笑顔で微笑みながら話す東山の言葉は、明るくて嫌味がなかった。

「ジョージさんは、よくシャンパンを開けてらしたわよね。ジョージ・デーには、私も大はしゃぎでお付き合いさせていただいたものよ」

懐かしそうに、七海ママが言った。それを聞いた若いホステスが聞いた。

「ジョージ・デーって何ですか?」

「たまに剛毅なハシゴ酒をなさることがあって、それを私たちはジョージ・デーと呼んでいたのよ」

ジョージ・デーには真央に電話があり、「クラブ胡蝶(・・)花(・)で飲んでいるから迎えに来てよ」、「スナック沙(・)良(・)にいるから」などと呼び出された。クラブやバー、寿司屋などの指定された店に迎えにいくと、ジョージさんはシャンパンを開けて待っていた。真央がグラスに注がれたシャンパンを飲み干すとジョージさんは、「よし、行こう!」と待ち兼ねたように立ち上がるのだった。

二人に、真央が迎えに行った店の人が見送りに付いてきてル・ジャルダンでシャンパンを開ける。次に、また他のスナックやオカマ・パブや小料理屋から迎えの人がやってきて、真央がその店までジョージさんを見送りに行く。ジョージ・デーの常連は苦労人ばかりで、真央は何かと親切にしてもらったものだった。

「へえ、凄いなあ」

「楽しそうですね」

「私もお父様にお会いしたかったなあ」

そんな豪快な飲み方を知らないホステスたちは、みなうらやましがった。

 

やがて閉店時間になり、五人の若者たちはアフターでカラオケに行くと言い出した。真央は、そのまま帰るつもりだったのだが、

「真央さん、僕といっしょに行きませんか?」

と、東山に引き留められた。

アフターに誘われたのは、二〇代前半の元気で可愛らしいホステスばかりだった。気が引けた真央は固辞したのだが、東山に押し切られる形でフィオーリア(ヽヽヽヽヽヽ)に行った。

他の若者とホステスが歌に興じるのを横目に、東山と真央は部屋の隅に並んで座り、話をした。大音量のカラオケが鳴り響く中、お互いの耳元で大声を出して喋った。

「東山さんは、あまりお酒を飲まないのですか?」

グラスから酒が減らない東山に、真央が聞いた。

「酒は嫌いじゃないのです。でも、今日の宴席は業界の集まりでしてね。この中で僕が年齢も経験もいちばん後輩なので、遠慮しているんです」

「東山さんは、今年で三一歳になられるんですよね。慶応大学からハーバードに留学されて、それからHM製作所に入社なさったのでしたね」

「よくご存知ですね。父は真央さんには何でもしゃべっていたのですね」

東山は、真央より六歳年下のはずである。ジョージさんは、「四〇歳に近くなってやっと授かった男の子だ。目の中に入れても痛くないくらいに可愛くて仕方ない」と言っていたのを思い出した。自分の学歴にコンプレックスを持っていたジョージさんは、優秀な息子に最高の教育を授けたい、と思っていたようである。

「では、MK金属の田中さんはご存知ですか?」

「ええと、ジョージさんの親友の方でしたね」

「当社の金庫番の山崎も、たぶんお邪魔していましたよね」

「はい。よくごいっしょに遊びにいらしてくださいました」

話してみると、東山と真央には、共通の知人がたくさんいることがわかった。真央は、東山が今夜初めて会った人だとは思えなくなってきた。親しい友人の弟と話しているような、いや、親戚の甥っ子か何かと話している感覚に近いものを感じた。

「じゃあ、中島さんもご存知ですか?」

「はい。お父様が倒れられたときに最初に連絡をくださったのが、中島さんでした。それからも何かとお気に掛けていただいたのですが……」

「この前、中島さんのお見舞いに行ってきました。たぶんもう駄目かもしれないとのことです。胃癌で長く闘病なさっていたのですが」

東山の目には、涙が浮かんでいた。

「そうだったのですね。ちっとも存じ上げなくて」

「ああ、すみません。ちょっと酔ったかなあ。この手の話に弱いんですよ」

東山は鼻をすすり、話題を変えた。

「銀座八丁目ソニー通りの、きく(ヽヽ)という小料理屋さんも行ったことがありますよね」

「はい、お気に入りのお店でしたもの」

ジョージさんは、きく(ヽヽ)の馴染み客だった。女将の菊さんは片親で、弟と妹たちの面倒を見るために店を始めたのだ、とジョージさんから聞かされた。

 

真央は、ジョージさんにきく(ヽヽ)で初めてご馳走になった日のことを思い出した。奥のテーブル席でジョージさんと二人で向かい合って日本酒を飲んだ。

八時近くになり、そろそろル・ジャルダンに向かうという時間になって、

「私は、母一人、子一人で育ちましてね」

と、ジョージさんは唐突に身の上話を始めた。

「オヤジは、しょっちゅう家に来ていましたし、母とは仲が良くて、オヤジに本宅があることを知ったのは、私が中学生になったときでした」

いきなり語られた打ち明け話に、真央は少々面食らった。

「本宅には兄が二人いましてね。今も世話になっています。兄に、暖簾分けとして独立させてもらいました」

ジョージさんは、私がシングルマザーであることを、どこからか聴き付けたのだろう。私を励まそうとして自分の生い立ちを聴かせてくれているのではないか、と真央は思った。

「ジョージさんが羨ましいです。お兄さんとそんな人間関係を築けるものなのですね。ジョージさんのお父様とお母様が、立派な方だからなのでしょうね」

ジョージさんに促されるようにして、真央も自分の身の上を話した。今まで誰にも言えないでいた惨めな境遇を素直に話している自分に驚いたが、それは、ジョージさんが話し易いようにお膳立てしてくれたからだった。

真央の息子の父親は大型チェーンの寿司屋に勤める職人であることや、「結婚しよう」という言葉を信じていたが裏切られたことを話した。

「彼の奥さんが怒鳴り込んできました。奥さんのご両親もやってきて大騒ぎになってからは、彼と連絡が取れなくなって。それから一度も会ってないです。彼の家にも娘さんがいるのですけれど……」

 

「父が通っていたお店で、僕が引き継いでいるのはきく(ヽヽ)さんだけなんです」

懐かしく思い出にひたっていた真央は、東山の言葉で我に返った。

「今日のように先輩に誘われれば、いくらでも付き合って飲みに出ますけれど、自分では行かないことにしています」

「飲み屋さんは、あまりお好きではないのですね。ジョージさんが、『俺の息子はとても真面目なんだ』と、おっしゃっていました」

「父のことは、創業者として尊敬しています。ですが、あの遊び方には賛成しかねるところもあって」

そうだろうか。ジョージさんは、自分が楽しむためだけに飲んでいたようには思えなかった。人助けをする気持ちもあったのではないだろうか。そう言いたかったが、東山に自分の気持ちは伝わらないだろうと思い、真央は何も言わなかった。

「いつか僕も父のように酒を飲む日がくるのかもしれません。でも今は余裕がありません。父が倒れるまで、この会社を継ぐ気がなかったもので、まだ毎日が必死なんですよ」

真央は、この出会いをこのままで終わらせたくない、と思った。

「東山さんのお気持ちがわかるような気がします。あの、LINEを交換していただけませんか」

真央がスマホを取り出すと、

「僕はル・ジャルダンさんのお客にはれないですよ」

と東山ははっきり言ったが、それでもスマホを取り出した。

隣に座っていた若いホステスが酔って東山の腕に絡みつき、

「東山さぁん、私も! 私もLINE!」

と、胸を擦りつけた。

「ごめんね。真央さんだけだよ。何と言っても父の〝係〟の人だから特別なんだよ。ごめん」

東山が優しい笑顔でホステスに謝った。

 

次の日、真央は、ひさしぶりにパソコンで東山工業を検索した。

ホームページを覗いてみると、この六年の間に会社が大きく成長していることがわかった。社員の数が二〇〇名とある。以前は四〇名と書いてあったようと記憶している。古臭かったホームページは刷新され、スマートでわかりやすくなっている。東山の息子がIT関係の新しい事業を始め、それが軌道に乗っていることがよくわかった。

真央は東山にLINEを入れた。丁寧に昨夜のお礼を申し述べてから、

《もしも何かの機会がありましたら、ジョージさんに私がよろしく申し上げていた、とお伝えください。》

と、書き添えた。すぐに返信があった。

《今朝、父に真央さんにお会いした、と伝えました。へえ、と驚いていました。》

 

一月の最終日の冷え込む夜のことだった。

真央は、不愉快な顔で「二度と来ない!」と捨て台詞を吐くお客を見送りに出た。真央の一月の最後のお客は、何度もお願いしてよくやく来店してもらったのだが、ボトルの入れ方が強引だ、と怒ってしまったのだ。

「ごめんなさい。あの娘がわざと濃く水割りを作ったと、とおっしゃってましたね。確かに、あの茶色はないですよね。ウーロン茶みたいな色になっていましたね。でも、私の指示じゃないです。私は、ちっとも知らなくて、すみません」

必死に謝ったのだが、

「勝手にボトルでもシャンパンでも入れて請求書を送りなさいよ。俺は帰るっ」

と、取り付く島もなかった。

肩も背中も丸出しのドレス姿で並木通りに出ると、酔いは一瞬で吹き飛ぶ。真央は去っていく客の背中が見えなくなるまで肌を刺す寒さに必死に堪えた。あまりの寒さに、心臓が止まってしまいそうだった。

だが、心臓が止まりそうに感じるのは寒さのせいだけではなかった。この一月の成績は、今までで最低の数字になってしまった。一二月に無理をしたツケが回ってきたのか、給料が下がってしまうギリギリの金額さえ売り上げることが出来なかった。

惨めな気持ちを抱え、真央が鳥肌の立った肩と腕を両手で擦りながら店に戻ったときだ。入り口に大きな紙袋を持った東山が立っていた。東山は、少し酒に酔っているようで赤い目をしていた。

「真央さん、ちょっと飲ませてもらえますか? もう閉店ですか?」

と聞く東山を、真央は笑顔で迎えた。

「閉店時間を過ぎても大丈夫ですよ。どうぞ。コートをお預かりしましょう」

東山は、紙袋を持ったまま店内に入ってきた。

「ボトルは、あのとき皆様で飲まれていたのをお出ししますか?」

と聞くと、東山は意外な言葉を口にした。

「いや、シャンパンにしましょう。シャンパン」

「ええ? あの、よろしいのでしょうか? 何をお出ししましょうか」

「父が飲んでいたのと同じものを」

ジョージさんが好きなシャンパンと言えばドンペリ(・・・・)だが、値段もそれなりに張る。

「ドンペリですよ。そう、ドンペリをください」

東山は重ねてドンペリを求めた。

七海ママが助けに駆けつけてきて、先日いっしょにカラオケに行ったホステスたちも呼ばれて華やかな雰囲気になった。

「真央さん、今日はこれを届けるために来たのです」

皆で乾杯したタイミングで、東山が大きな紙袋を差し出した。紙袋の上にはカードが添えられていて、《勇人君、お誕生日おめでとう。》と、達者な文字で書かれていた。勇人というのは、真央の息子の名前である。

(そうか、ジョージさんは勇人の誕生日を覚えていてくれたんだ。勇人という名前も漢字も忘れないでいてくれたんだ)

大きな紙袋の中には、サッカーボール、最新式の地球儀、ラジコン、図鑑など、男の子が喜びそうなプレゼントがめいっぱい詰め込まれていた。

「わあ、わあ、まあ」

真央は感激のあまり、お礼の言葉さえ出てこない。

「勇人君が喜んでくれるといいのですが。最近の小学三年生は何を喜ぶんでしょうか。僕の趣味で選んでしまったのですが」

東山の端正な顔が真央を覗き込んだ。

ジョージさんと同じ眼差しだ、と真央は思った。よくよく見ると、東山とジョージさんは、大きくて優しい目がそっくりだった。豪快なプレゼントの贈り方も似ていた。

やはり、この二人は親子だ。真央は、初対面の時に「まったく似てないです」などと言ってしまったことを後悔し、心の中で何度も謝った。

 

 


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