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ホステスと少年  3綾乃、援助を断る

2020/07/27

朝六時に携帯のアラームが鳴り、綾乃は眠い目をこすりながらベッドから滑り出た。翔太が高校に行くために家を出るのは七時である。これから一時間で翔太に朝ご飯を食べさせ、弁当を作らなくてはならない。

昨夜のアフターは、月の庭でのカラオケだった。その後に、お客とうら(・・)ら(・)でうどんを食べることになって、家に帰り着いたときには午前三時を過ぎていた。けれど、料理で手を抜くことは綾乃のプライドが許さなかった。

今日の弁当のおかずは豚の生姜焼きとハンバーグ、きんぴらにブロッコリー、三粒のイチゴである。もう一つの弁当箱に、炊き立ての二合半の白米を押し込んで海苔を乗せた。

幼稚園の頃から、持たせる弁当にはこだわってきた。できるだけ豪華に綺麗に盛り付けたい。通っていた幼稚園や小学校では、綾乃が手作りするキャラ弁のレベルが高い、といつも評判をとった。シングルマザーの家だと馬鹿にされたくない気持ちが強かったのかもしれない。

弁当を作りながら、目玉焼きとベーコン、野菜炒めにコーヒーを用意した。2DKのマンションの小さな台所の二台のコンロと電子レンジは、フル稼働である。料理を手早く仕上げることには自信があった。

レトロな目覚まし時計が打ち出す金属音が大きく鳴っているのに、翔太はいっこうに起きてくる気配がない。

「翔太ぁ、早く起きなさい!」

綾乃は大きな声で呼び、かなり強くドアを叩いた。

ランチバッグに入れた弁当を渡し、寝ぐせのついた髪の毛を直させ、七時に翔太をマンションのドアから押し出した。

「いってらっしゃい! 頑張ってね。お母さん、今日は五時に家を出るわよ、何時に帰るの」

「今日はコンビニでバイトだよ。先輩の家に遊びに行くかも」

翔太は眠そうな声で答えた。

「先輩って、あの五反田に住んでいる大学生よね。遅くなるなら、ちゃんと連絡を入れてよ」

「はーい。行ってきます」

先々週に帰宅が真夜中を過ぎたときから、もしや悪い友達ができたのではないか、と心配した。だが、あれ以来、帰宅が遅くなる様子もなく、綾乃は胸を撫で下ろした。勉強やスポーツが特別にできるわけでもないけれど、親に反抗することもなく、以前と同じように気持ちが穏やかで優しくて真面目な翔太であった。

綾乃はマンションのベランダに出て、翔太が駅に続く道を進み、横断歩道を渡るところまで見届けた。

 

今夜の同伴の相手は、横田である。一八時に待ち合わせの銀座八丁目の皆(・)寿(・)という割烹へ向かった。

綾乃の装いは今日も地味で、髪をシニヨンに纏めて濃紺のスーツに黒いヒールを履いていた。小さなダイヤのネックレスとイヤリングがわずかに華やぎを与えているが、綾乃と横田が並んでいると、上司と秘書が仕事の打ち合わせをしているようにしか見えなかった。

銀座のクラブ勤めになって半年になるが、ホステスらしい胸が強調されたドレスやミニスカートには抵抗があった。お客とのやり取りにはだいぶ慣れてきたが、肌を露出させる衣装を着ることは、これからもないように思えた。

横田は先に来ていて、冷やの日本酒を飲んでいた。

「綾乃さんは何を飲みますか?」

「横田さんと同じものをいただきたいです」

「王(・)禄(・)という、島根では有名なお酒を飲んでいます」

「では、それをいただきます」

横田が注いでくれる酒を、小さな盃で受けた。

「美味しいです。淡麗で、すいすい飲めてしまいそう」

以前からお酒には強いほうではあったが、ジャルダンに勤め出してから、美味しいお酒の味がわかるようになってきた。

「このお酒の醸造所はブレンドを一切しないので、酒蔵によって若干味の違いがあります。管理をしっかりと行っている特約店でしか購入できない貴重品ですよ」

食事が進んで鱸(すずき)の奉書焼きが供されたところで、横田が言った。

「ところで、翔太君は元気にしていますか?」

「お蔭様で。間違えてLINEを差し上げてしまったあの日からは、帰宅が遅くなることもなくて、真面目にしています」

プライベートな話題になると、急に緊張して身体がこわばってくる。子供がいることや、離婚のことをどこまでどう説明するのがベストなのだろうか。綾乃には迷いがあった。

銀座のお客は紳士ばかりで、突っ込んで質問されたことや、悪意のある意見を言われたことはない。だが、子供がいることで女としての価値が下がり、ホステスとして相手にされなくなるかもしれないという危機感は、子持ちのホステスのほとんどが共通に抱く思いだった。綾乃自身も先日のLINEの送信ミスがなかったら、横田に子供の話をすることはなかっただろう。

「四年前に正式に離婚しました。長い間ずっと離れて暮らしてきましたので、すっきりしました」

綾乃は、当たり障りなく自分の状況を伝えた。

「そうですか。実は、今日は綾乃さんに折り入って相談したいことがありましてね」

「はい、なんでしょう」

「翔太君に家庭教師を付ける気はありませんか? 高校生の男の子ですから、何でも相談できて兄貴のように親身になってくれる家庭教師がいいと思っています。私の学生時代の友人が、いや、悪友ですが、大手の家庭教師の派遣会社をやっていましてね、相談してみませんか」

「突然に何をおっしゃるのですか? 家庭教師なんて、いえ、そんな余裕は、とてもありません」

公立高校の受験に失敗し、私立高校の入学金に二一〇万円も支払う羽目になった。それ以来、家計は火の車である。大学の入学資金を少しでも貯めておきたいと思っている。若い翔太に有償の奨学金や学資ローンという名の借金を背負わせたくはない。綾乃は、そう考えていた。

「翔太君が少しばかり不良っぽくなっているとしても、高校一年生ならまだ何とでもなります。この時期に有能な家庭教師を雇ってみませんか」

「あの、おいくらぐらいになるのでしょう。いええ、ダメです。とてもそんな余裕はありません。暮らしていくだけでせいいっぱいです」

「家庭教師を安く派遣している会社もありますが、兄貴分として親身に相談にのってくれる人間となると、そうそう安くはありません。そこで、私に多少の援助をさせてもらいたいのです」

「いきなり、何をおっしゃるのですか!?」

綾乃はこのまま席を蹴って立ちたい気持ちだった。ホステスの中には、お客から高価なプレゼントを受け取る者もいる。自らおねだりする女もいるらしいが、店に来店するよりもプレゼントのほうが安いと考えるお客も多い、と聞いていた。

どんなホステスも紐付きのプレゼントよりも、後腐れのない売上を喜ぶものなのではないだろうか。けれど以前蝶子さんが「面倒臭いプレゼントも、一所懸命に断ってもどうにもならなければ、受け取ってあげるのもサービスのうち」と、教えてくれたのを思い出した。

「援助という言葉が悪かったのですね。私の会社の書類を翻訳してもらえませんか? 私は綾乃さんの英語力を高く買っています。翻訳料として、翔太君の家庭教師代ぐらいの報酬を出させていただく、ということは出来ませんか」

「そういう施しのようなものは、受け取れません」

綾乃はきつい口調で断った。

横田は、その口調の強さにたじろいだように見えた。もっと別な婉曲な言い方をするべきだった、と綾乃は唇をかんだ。

数分の気まずい沈黙が流れたあと、横田が口を開いた。

「私には二人の子供がいましてね。娘は昨年からTS社で海外事業を担当させてもらっています」

これまで横田は、あまりプライベートのことを語らなかった。学生結婚の妻と社会人の娘がいるとは、以前に聞いたことがあった。

「娘が九歳、息子が二歳のときに、イギリスへ赴任が決まりました」

「あら、息子さんもいらっしゃるのですね」

「はい。正確に言えば、いた(ヽヽ)のです」

「え? どういうことでしょう」

横田は家族を連れてイギリスに赴任し、五年間暮らした、と語った。娘は社交的な性格で、帰国してからも日本の学校にすぐに溶け込んだ。今でも英語を聞き取る能力はネイティブ並みだという。だが、息子はイギリスで保育園に馴染めず、帰国してからも学校に馴染めなかった。

「息子の日本語が完成する前の二歳という年齢でイギリスに赴任したこと、それが致命傷だったように思います」

帰国してから何度も学校を変え、家族揃ってカウンセラーにも通った、と横田は説明した。

「そして、息子は病気になってしまったのです」

綾乃は言葉を失った。横田の息子がどんな病気であったのかを聞くことは憚られた。

「そうだったのですか。それは……なんとも言葉が見つかりません」

「翔太君には会ったことがありませんが、何かしら私でお力になれたら、と思うのですよ。あの間違いのLINEを受け取ったとき、とても他人事とは思えなかったのです」

もし翔太に最高の家庭教師を付けられたら、しっかり勉強してくれるのだろうか。良い大学に進み、有名企業に就職してエリートコースを歩むこと、それを望まない母親はいない。けれど、横田の申し出を受けていいものだろうか、と綾乃は考えた。

最初はビジネスの書類の翻訳をしていたとしても、横田の気まぐれで無理な要求をされたらどうするのか。横田の意向で急に仕事を外され、家庭教師を雇いきれなくなったとき、翔太に何と説明するのか。そんな危険な賭けはとてもできない。

そのとき、横田がわざとらしく時計を見た。

「おっと、時間だ。そろそろ店に向かいましょう。この前の同伴の時には、エレベーターが渋滞していて、階段で駆け上がって、やっと間に合ったのでしたね」

 

五月晴れの日の光を浴び、代々木公園の池の噴水は、ダイヤモンドの粒を絶え間なくまき散らしているかのように美しくきらめいていた。

噴水の前で、さくらは大きく伸びをした。ふと見上げた空には、初夏特有のやわらかな青色が広がっていた。いっぱい深呼吸をして、この素晴らしい空気を体の中に取り込もう、それから五時くらいに電車に乗って、このまま五反田のガールズバーに出勤しよう、と考えた。

さくらは大きな紙袋を抱えていた。原宿で、店で着るための派手なドレスを買ったのだ。買い物を終えると、急に代々木公園に来てみたくなった。子供の頃から、緑がある場所をのんびり散歩するのが好きだった。遠出はなかなかできないけれど、近くに緑濃い公園があれば、少しでも森林浴の真似事をしたかった。

噴水の前で身体を大きく伸ばしていたとき、横のベンチで弁当を食べている男の子の姿が目に入った。半袖ではまだ少し寒いこの季節に、白いTシャツにジーンズ、デニムのキャップという夏の装いで弁当を食べている。

いかにも腹を空かした様子で一心不乱に弁当をかき込んでいる男の子と目が合った時、さくらは思わず声を上げた。

「あら、あらら。もしかして、翔太君!?」

ハムスターのようにご飯で頬を膨らませたその男の子は、目を真ん丸にして箸を止めた。

「あれ、あれれ、さくらさん!? この前は、お世話になりました」

「どうしているかなあって気になっていたんだけど、私がLINEすると、翔太君を不良の道に誘い込んじゃう気がして遠慮していたのよ」

「いや。僕のほうこそ、店に行かれないのに連絡したら悪いと思って」

意外に大人びた答えに、さくらのほうが戸惑った。翔太が一人でいることを確かめてから、さくらはその隣のベンチに座った。

弁当箱の中をのぞくと、生姜焼きにハンバーグ、きんぴらと、食べ盛りの男の子の好物が、これでもかと詰め込まれていた。

「どうぞ、食べちゃって」

さくらに促され、翔太は再び箸を使い始めた。それは気持ちの良い食べっぷりで、あっという間に弁当箱は空になった。それから、さくらと翔太は代々木公園を散策し、竹下通りでアイスコーヒーを飲んだ。

翔太はあまり喋らないけれど、受け答えは年齢より大人っぽいし、何より笑顔が可愛いらしい、とさくらは思った。ジャニーズにいてもおかしくない顔立ちとスタイルで、すれ違う若い女たちが振り返って翔太を見た。

「明日は、ちゃんと学校に行ったらどう?」

さくらは、お姉さんぶって説教臭いことを言った。

「私は高校中退だけど、将来のためには高卒のほうが格好いいよ」

さくらは、少し〝上から目線〟で言った。

「さくらさんは、将来はどうするの」

「うーん、まだわからないや。よく考えたら、私のほうこそ真面目に先のことを考えなきゃあね」

五時過ぎに二人で電車に乗って、さくらだけが五反田の駅で降りた。

 

同伴で店に入ると、横田は、気まずい時間が流れたことなど何もなかった様子で、いつもどおりの快活な様子で女の子と会話を始めた。

小一時間が経つと、綾乃はスタッフに呼ばれた。

「綾乃さん、四階のお客様のところに付いてもらえませんか?」

「英語が必要ですか?」

綾乃は、接待の席を盛り上げるのも、色っぽい営業も苦手だった。それでも自分が呼ばれるのは英語が必要なときくらいだ、と心得ていた。ところが、呼ばれた七海ママのお席では、少々勝手が違った。席に着くなり、お客が綾乃に尋ねた。

「以前は、GQ社にいたそうだね」

「あ、はい」

GQ社とは、綾乃が以前勤めたことがある有名企業の名だった。

綾乃は名門大学を卒業後、厳しい就職活動を乗り越えてGQ社に入社した。だが、ル・ジャルダンでその経歴を明かして良い思いをしたことがない。妙な詮索をされるか、せいぜい説教をされるのがオチである。できれば、お客には何も言わないでほしい、と思っていた。

かつて、お姉さんにやんわりと抗議したことがあった。

「かえってお役に立てないと思いますので、私の経歴のことはお客様に言わないほうがいいと思います」

「あら、駄目だっていうの? 綾乃さんの特技のなんでしょう。ほかに特別な売り(ヽヽ)がないのだから、使えるものは何でも使わせていただきたいものよね」

と、強烈な嫌味で返されただけだった。

確かに、ホステスとしての特別な売り(ヽヽ)がないとヘルプとして使いにくいと言われれば、そのとおりだった。綾乃は覚悟を決めて会話を合わせた。

「その昔、札幌でお世話になっていました。でも恥ずかしいので、なるべく秘密にしておいてください」

「ほう、札幌支社にいたのか、あの支店長は豪傑でね、何度も一緒に朝まで騒いだものだよ」

「先輩からそんなお話を聞きましたけれど、私のときには、もう引退なさっていらっしゃいました」

笑顔で調子を合わせた。

 

ル・ジャルダンの店内では、ほとんど横田と話すことができなかった。

エレベーターで二人きりになったときに、ようやく横田が声をかけてきた。

「綾乃さんを驚かせてしまったようですね。答えは急ぎません。検討してみてください」

「ありがとうございます」

横田の真っ直ぐな気持ちが伝わってきた。心から有難く思い、綾乃は深く頭を下げた。

横田がうどん屋の木屋(・・)を右に曲がって見えなくなるまで、せいいっぱい感謝の気持ちを込めてその後ろ姿を見送った。

仕事を終えて家に帰ると、翔太はぐっすりと眠っていた。

台所の流しに弁当箱が放り出されていた。せめて水に漬けておいて、と何度も言っているのだが、最近は諦めた。弁当箱を開けると、きれいに完食されていた。それを見た綾乃は少し心が弾み、鼻歌交じりで手早く弁当箱を洗った。


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