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浮気 1 胸騒ぎ

2019/11/14

今回もショートストーリーで書かせて頂きました。拙いですが、お目を通して頂きまして、爆笑、失笑なさって頂けましたら、とても嬉しいです。

≪鈴虫≫

二階のベッドルームの少し開けた窓から、秋の虫の音が聞こえる夜のこと。鈴虫のリーンリーンという鳴き声の一つが急に大きく高くなり、鼓膜が破れそうなって目を覚ました。

隣のベッドには、案の定、直樹さんの気配がない。時計を確かめると真夜中の三時である。

「直樹さんは浮気をしているのではないか」と、疑り始めたのは半年ほど前のことだ。それとなく動向を探ってきたが、最近は午前様になることが増えて、直樹さんの態度は開き直っているようにさえ思えてくる。

そう、今週も火曜日の帰宅が夜中の2時だったし、先週は木曜日から二日間、四国へ出張だし、週末になれば必ず仲間内のゴルフに出掛けていくのだ。

ふと、朝食のときの直樹さんの様子が脳裏によみがえってきた。

ここ半年ほどは、携帯を肌身離さず持ち歩いて画面を覗いては鼻の下を伸ばしているようなのだが、今朝の顔つきは少々違っていた。普段なら一気にかき込むはずの大好物の“卵掛けご飯”を途中で辞めて、真剣な顏でラインのやり取りをしている。「お父さんっ、何か急ぎの用事なの?」と声を掛けると、慌てて顔を上げて、「うんうん、いや、部下からの連絡だ。現場で足場が崩れたようで、うん、今夜は遅くなるかも。」と、要領を得ないことを言い出した。遠くからラインの画面を盗み見していたが、確かに色鮮やかなスタンプが見えた。部下とスタンプのやり取りはないだろう。

こうして今日も2時を過ぎても帰宅しないことと、今朝のラインと関係があるのではないか。私はベッドから起き上がって、激しい胸騒ぎを紛らわせようとした。

直樹さんが浮気をしているとすれば、十中八九、相手は銀座のホステスではないだろうか。たまにスーツのポケットに残されているホステスの名刺が銀座であることが多いし、真夜中に持ち帰ってくる手土産も銀座の店のものばかりだ。

だから小さな電気会社の社長の嫁など来たくなかったのだ。父も母も心配していたのにと、深く溜息をついた。

嫁いできた頃は、直樹さんの帰宅が遅くなることなど滅多になかった。だが、舅の後を継いで社長になって、大手の仕事が取れるようになってからは違ってきた。接待だ、打ち合わせだ、部下の慰労だと出掛けて行っては、夜遅くまで酒を飲んでいる。

社長である直樹さんが、小さな会社を支えるトップ営業マンであることは理解しているつもりだ。けれども、仕事だ、大変だと言っているだけで、本人が好きで遊び惚けているだけなのではないか、そんなふうに思えていきている。

そもそも景気が良くなったと言っても、吹けば飛びそうな小さな会社だ。余裕のあるうちに将来に備えるべきであって、浮かれて遊んでいて一体どうするのだと、心配になってくる。

我が家は二世帯住宅で玄関や生活は別々だが、隣には舅と姑が住んでいる。結婚以来、精一杯“良き嫁”として努めてきたから、嫁姑の仲も良好だと思う。

旦那の夜遊びが頻繁になってきてから、姑は私をお茶や食事に誘ってはアドバイスをするつもりなのか、説教じみたことを言うようになった。

「うちの業界は昔から派手で遊びのお付き合いが多いのよ。うちの旦那も銀座だ、赤坂だって、しょっちゅう朝帰りしていたの。奥様っていうのは慌てないでドーンと構えていることが大事よ。」

「遊びは男の甲斐性ですからね。亭主元気で留守が良いって言うでしょう。」

「そうそう、うちの旦那の出張用のボストンバッグから黒いブラジャーが出てきたことがあったわ。70のHカップですよ。どういうことって聞いたけれど、言い訳もしないで「バカヤロー」って、それはないわよね。オカシイでしょう?今では笑い話よ。あははは。」

姑は旦那の夜遊びに目くじらを立てずにいなさい、怪しい素振りも見て見ぬ振りをしていなさいと言いたいらしい。自分の若い頃の経験談を語って、それに比べれば我が息子は良い夫でしょうとでも言いたいのだろうか。素直に受け入れる気になど到底なれない。

私の父は区役所に勤める公務員で、母は浮気の心配などしたこともないと言っていた。酒を飲んで朝帰りする父など想像できない。私が目覚めて居間に行けば、いつだって先に起きている父がソファに座って新聞を広げていた。

そんなことを考えているうちに、すっかり目が冴えてしまった。二階の窓から道路を見てみてみるが、漆黒の道路が街灯の灯りに照らされるだけである。

≪そのころ銀座で≫

私の指名のお客様が、チェックを済ませた後になっても、なかなか席を立ってくれない。

「すずちゃん、このあと『木屋』に付き合ってよ。お家まで送っていくからさぁ。」と、アフターに誘ってくれたのに、「ええっと、まだこれからお客様の予約があって、まだ帰れなくて。」と断ってしまったから、嫌がらせもちょっと入っているのかも知れない。

今夜の「ル・ジャルダン」はお客様の引きが早いようで、私のお客様の他にはもう誰も残っていない。

藤井さんは今頃、私を待って苛立っているのではないだろうか。「直ぐに行くから待っていて。」と、言って送り出してから、もう小一時間も待たせている。もしも藤井さんが先に帰ってしまったらどうしよう。

膝の上に置いたクラッチバッグの中で携帯が鳴っている。絶対に藤井さんからの電話だと思うけれど、今この電話に出たら、隣のお客様は、もっと意地悪をして居座りそうな気配である。

スタッフを呼んで、小さな声で、「藤井さんが久寿美寿司で待っているの、この状況を説明しておいて欲しいの。」と伝えた。どうしても今日は藤井さんに会ってお話したいことがある。

でも、お店に残っているお客様に迷惑そうな嫌な顔をしてはいけない、精一杯の笑顔で盛り上げなくちゃっと、自分で自分に言い聞かせた。「再来週のゴルフのこと、とっても楽しみに待っています。それまでに一所懸命に練習しておきますね。」と、お客様の膝に手を乗せると、「すずちゃんなら、どれだけ下手だってなんだっていいんだよ~。一緒に行こうね~。19番ホールだって頑張っちゃうよっ。」と、私の手を汗ばんだ手で握り返してきた。どうにか機嫌を直してくれたようだ。

一時過ぎになって、その最後のお客をビルの下まで見送った。並木通りには空車のタクシーの列ができていた。

「タクシー会社の指定がありますか?ボックスカーと普通の車ならどちらが宜しいですか?」と聞くと、「すずちゃんの好きにして~」と、腕を絡ませてきた。一番に近くのタクシーを止めて、お客様の身体を押し込むようにして乗せた。深くお辞儀をしてお見送りをして、タクシーから自分が見えなくなったことを確かめてから、久寿美寿司へ猛ダッシュで向かった。着替えもバッグもお店に残したままだが、とにかく早く藤井さんの顔を見たかった。

二階まで狭い階段を駆け上がって久寿美寿司の格子戸を開けると、右側のテーブル席で、藤井さんとヘルプの茜ちゃんが親しそうに額を寄せ合っていた。なーんだ、私が焦ることもなかった。私がいなくたって楽しそうじゃないかと、ヤキモチが妬けてきた。けれど、遅くなった私が悪いんだ。

「藤井さん、遅くなってしまってごめんなさい。」と、お詫びしてから、「えっと、茜ちゃんのお家はどこでしたっけ?えっと、目黒でしたっけ?5000円くらいで帰れますか?」と言って、茜さんに帰って良いですよと、また藤井さんに暗にタクシー代をお願いした。

藤井さんがお財布から一万円を出すと、茜ちゃんは恐縮した顔をして、「すみません、」と言った。

「茜ちゃん、お店に戻ったら、私のバッグをここに届けるようにスタッフに言って下さいね。」と、お姉さんらしく精一杯に優しく言ったつもりだ。

久寿美寿司さんでは、ちょっと照明が明る過ぎるなぁ、藤井さんに今日お話ししたいことは、もう少し暗い場所が相応しいなぁと思っていると、藤井さんが、「トリプルBarに行こう、予約してあるんだ。」と言ってくれた。

トリプルBarの入口を入って左側には、靴を脱いであがる小さな個室がある。そこには漫画の本やブリキのおもちゃが置いてあって、お友達のお部屋に招かれたような気分になれる。潰れかけた小さなソファに二人で並んで腰をかけて、藤井さんはラムのロックを、私はマルガリータを注文した。

「遅くまで大変だったね。最後までいたのはどんなお客さんなの?」と、藤井さんが優しく聞いた。

「うどん屋さんに行こうってアフターを誘われたのだけれど、お断りしたらお臍を曲げてしまって、なかなか帰ってくれなくて。」

「そうかぁ、大変だったね、お疲れ様。」と、藤井さんは私の頭に手を乗せて、子供にするようにポンポンと軽く叩いた。「ヤキモチを妬かれるのは、すずちゃんが好かれている証拠だからね。」と、藤井さんが優しく微笑んだ。

藤井さんと一緒にいると、とても気持ちがラクチンで幸せな気持ちが込み上げてくる。藤井さんは、いつも優しくて不機嫌な顔を見たことがない。変なヤキモチも妬かなくて、お仕事を頑張れって、いつも私を応援してくれている。

お客様には、いろいろなタイプの方がいて、精一杯に頑張ってもダメなことだって多い。

ちょっとのことで急に怒ってしまうお客様、ブスだとか馬鹿だとか意地悪なことを平気で言うお客様、やらせてとか、彼女になってとか、無理なことばかりを言ってくるお客様、理由が分からないまま連絡が取れなくなってしまうお客様、私と同伴してきたあとに、わざと他の女の子を指名してくるお客様だっている。いろいろなことに傷ついてしまうけれど、藤井さんだけはそんなお客様たちとは違っている。これを信頼関係と呼べるのか分からないけれど、藤井さんだけは、私のことをずっと応援してくれるって信じている。

半年くらい前に、藤井さんが私を担当に選んでくれたときは、とても光栄だったけれども、ちゃんと務まるかどうか自信がなかった。

藤井さんは、金星電気会という「ル・ジャルダン」のVIPのお客様が10人くらい集まっている会のメンバーだ。金星電気会のお客様にはそれぞれ担当の女の子が決まっていて、売れっ子のお姉さんばかりが指名されている。

『すずちゃんに、僕の係りになってもらいたい。』とラインが来た時には、『私では無理な気がします。金星電気会の皆様の担当は、ベテランのお姉さんばかりだから、私なんかでは務まりません。大失敗してしまいそうです。』と返信した。『僕がフォローするから挑戦してみない。』と書いてくれて、とても嬉しかった。

≪朝帰り≫

午前3時を過ぎたが、直樹さんはまだ帰ってこない。この2~3ヵ月、直樹さんの帰宅が遅くなることが気になって眠りが浅くなっている。胸が痛むほどの不安と焦燥感を鎮めたいと、隣りの子供部屋に入ってみた。中学一年生になる直人が眠っている。無防備に足を延ばして、ふっくらしたほっぺを光らせて、柔らかな髪を枕の上に伸ばして、濃い睫毛が顔に影を落としている。人差し指をほっぺに押し当ててみると、強く押されて跳ね返ってきた。直人はジャニーズに入れたくなるほどのイケメンで、スポーツ万能な上に成績もトップクラスだ。将来有望な期待の一人息子である。冷静に考えて、直樹さんに彼女がいたとしても家庭を捨てて出ていくとは思えない。直人を可愛がっているし、舅と姑だってそんな勝手を許すはずもない。

そうっと子供部屋を出て、直樹さんのパソコンの前に座った。直樹さんのパソコンで「浮気」のワードを検索するのはこれで何度目だろうか。検索のボタンを押すと、当たっているのかいないのか、浮気の見破り方だの、浮気の辞めさせ方だの、体験談だのの情報が氾濫している。それらを検索していくと興信所の広告へと繋がっている。数多の興信所の中で、いざ依頼するとなれば、UI興信所というところにお願いしようと、すでに心に決めている。ホームページの丁寧な解説に好感したことと、全国に支店があってその中の一つが近所だということも理由であるし、セット料金で28万円のコースというのが私の条件にピッタリのようだ。「無料相談」「浮気が見付からなければ0円」などと書かれた興信所も多くて、そんな謳い文句にも惹かれるけれど、今回の直樹さんの調査では何かしら出てくるような気がする。勇気を振り絞って、震える指先に力を込めて、UI興信所の「ご相談フォーマット」に年齢、相談内容、自分の携帯番号とアドレスも打ち込んで送信した。

グーグルを閉じて、改めて直樹さんのパソコンのデスクトップを見た。直樹さんの会社のメールやGメール、ラインも乗っている。これらの暗証番号が分かったら28万円を支払うまでもないのかも知れない。この中にどれだけ浮気の証拠が詰まっているのだろう。

≪再び、銀座で≫

「昨日の深夜のラインには驚いたよ。僕のことで悩ましているようだね。」と、藤井さんが言うのに、私は、大きく被りを振った。

「いいえ、藤井さんのせいではないんです。結婚を決めていた彼氏ですけれど、お別れすることにしました。」と、藤井さんの目をしっかりと見つめて答えた。

「彼の仕事が落ち着いたら結婚するつもりだったのですけれど、銀座のクラブでアルバイトするのが気に入らないって、子供っぽいことばかり言ってきて。何度も喧嘩しているうちに、私たちに結婚はまだ早いかなぁって、そう思えてきました。」

「そうかぁ、すずちゃんの彼氏さんも悪い人じゃなさそうだったけれど。」と、藤井さんが返してきたのに、気の利いた答えをしたかったのだけれど、上手く言葉にならない。

「私が藤井さんのことを大好きになってしまったんです。藤井さんはご家庭を大事にしていることも分かっていて、でも、でも、あの。」と、そこで詰まってしまった。藤井さんが、また私の頭にポンと手を乗せた。

「それでね、高井戸から引っ越そうと思います。心機一転、もっと真剣に銀座でお仕事してみたいんです。」

「そうかぁ、分かった。」

「私が引っ越したら遊びに来てくれますか?」と、思いきって聞いてみた。

「一人暮らしになったら、お部屋にも寄って欲しいんです。藤井さんの大好きな“卵掛けご飯”くらいなら、私だって作れます。」

「卵掛けご飯は、あれで奥が深くて難しいんだ。」と、藤井さんが言った。

気が付くとそろそろ三時である。藤井さんと一緒にいると時間の経つのが本当に早い。カクテルの一杯を飲み干しただけだというのに、とても信じられない。

トリプルBarの個室を出て13センチのヒールを履こうとしたとき、バランスを崩して横に倒れそうになる。藤井さんが手を差し伸べてくれたが、その手が間に合わなくてそのまま藤井さんの胸に倒れ込んでしまった。一瞬のことだったが、藤井さんの胸に抱きすくめられる形になった。藤井さんの身体からかすかに大人の男の匂いがした。それは何だかちょっと懐かしくて、さらに酔いが回りそうな、うっとりする香りだった。

御門通りまで歩いて二人でタクシーに乗った。タクシーの中で藤井さんの頬にキスをした。藤井さんは私の肩を抱き寄せてくれたから、そのまま肩のあたりに頭を乗せた。「藤井さん、今度はいつ頃にゆっくり会えますか?」ときいてみると、「連絡する、早いうちに時間を作るよ。」と藤井さんが優しく答えた。

≪朝帰り≫

UI興信所にフォーマットを送信してしまうと、憑き物が落ちたように少し冷静になれた。もう一度、時計を確かめてみると3時30分を指している。酒を飲んで遊んでいるにしては幾ら何でも遅過ぎる。どこかのホテルか、彼女の家で眠ってしまったのか、いや、もしかして、何か事件にでも巻き込まれたのではないか。いや、事故かも知れない。酔っ払って歩いていて車にはねられたとか、酔ったまま道に倒れ込んで発見されないとか、そんなのだったらどうしよう。

直樹さんに何かあったのではないか、幾ら何でも遅すぎる、事故か事件か、胸の動悸が早くなってきたそのとき、タクシーが止まる音がした。窓辺に駆け寄って下を見ると、直樹さんがタクシーから降りてくるのが見える。無事でいてくれて良かったとホッとしたと同時に、怒りが込み上げてきた。こんな時間までいったい何をしているのか、とても理解ができない。ダイニングルームに降りていくと、直樹さんはまた携帯に弄っている。空が白んできそうなこの時間に真剣な表情でいったい誰に連絡を入れているのだ。

「お帰りなさい。」と声を掛けると、直樹さんは、携帯から顔を上げて私と目が合うと、驚いた様子で、急に顔をしかめて、「疲れた、あ~あ~、まいった、疲れた~っ」と、わざとらしくこめかみに手を当てて頭を揉んだ。「こんなに遅くまでどこにいたの?心配していたのに。」と言うと、「山本電機の山本常務のカラオケが終わらなかったんだ。よくやくカラオケが終わったら、寿司屋に行くと言い出して帰してもらえなかった。それから松戸に住むホステスを自宅まで送れと押し付けられて、松戸まで往復してきたんだよ。いや、もう、勘弁してもらいたい、まいった~」「でも大きな仕事が取れそうだよ。」とベッドに潜り込みながら、直樹さんは、そこだけ明るい口調で言った。

香水や石鹸の香りがするのではないか、と直樹さんに近寄って臭いを嗅いでみるが、特に何も匂ってこない。いや、だが、この時間まで飲んでいたなら、もっとお酒や煙草などの臭さが匂ってくるはずではないのか。

ふと直樹さんが脱ぎ捨てたシャツに目と止めると、胸の辺りに赤い口紅が付いていた。「あら、口紅!」と、大きな声で咎めるように言うと、直樹さんはベッドから起き上がりもしないで、「えっ、そう、どれっ見せてよ。」と返してきた。ベッドの淵まで歩いて行って、その赤い色を見せてやると、「確かに口紅っぽいなぁ。どこで付いたんだろうなぁ?そうだっ、カラオケで踊ったときだよ。山本常務がチェッカーズを歌って、その場の7~8人が全員で踊るって趣向なんだ、ネクタイにハチマキの昭和スタイルで踊ったんだ、疲れたよ~」

私が黙っていると、「だって、シャツじゃないの」と、直樹さんが重ねて言った。「パンツに口紅が付いていたら文句を言われても仕方がないけどさぁ。」と言うと、そのまま眠ったようでイビキを搔き出した。

朝日が差し込んでくると、口紅の付いたシャツがキラキラと輝いている。よく見ると、胸の口紅が付いた周りにはファンデーションのパールが付着している。ダンスを踊ると、こんなふうに口紅とファンデーションがシャツに付くのだろうか、意図的に着けたのではないか、私への挑戦なのではないか、その女の悪意が感じ取られた。

それから一睡もできない間に朝の支度をする時間になった。朝の6時には直人を起こして、7時20分のバスに乗せなくてはならない。炊き立てのご飯に、半熟の目玉焼き、ウインナーを茹でて、トマトとブロッコリーのサラダに、梨を剥いた。「早く、早く、体操着を忘れないで」と掛け声を掛けて、直人に支度をさせた。

直樹さんは7時過ぎに目を赤く腫らして起きてきた。

「朝ご飯は食べられそうかしら。今夜は何時ころに帰ってくるの?昨日は柳常務と他に誰がいたのかしら?私の知っている人がいるの?」と矢継ぎ早に問い掛けたが、答えは無い。二日酔いで食欲がないと、朝ご飯を断ってきた。そして、「昨日は心配掛けちゃって、ごめんなさい。」と、いかにも申し訳なさそうに言って出掛けて行った。

朝ご飯の後片付けを終えて洗濯物を始めようとしたときに携帯が鳴った。真夜中に相談フォーマットを送信したUI興信所からであった。

その日の昼過ぎに駅前の喫茶店でUI興信所の調査員と会うことになった。緊張気味に待っていると、60代半ばくらいだろうか、太った女と若い男の二人組がやってきた。ベテランの調査員だと自己紹介した女は脇田と名乗った。脇田は同情を込めたまなざしで私を見つめて、深く頷きながら話しに耳を傾けた。

「まぁ、まぁ、それは、さぞご心配なことでしょう。」「奥様のお辛いお気持ちはよくよく分かります。」脇田の受け答えは礼儀正しく、いかにも熟練の調査員らしく的を射ていて、徐々に私の心をほぐしていった。「離婚などは全く考えていないのです。夫には元通りの仕事熱心で真面目な夫に戻ってもらって、家庭を大事にして欲しくて。」と、そこまで言うと、涙がにじみ出てきた。

「よく分かります。まずは証拠を掴かみましょう。奥様が仰いますように、相手の女が銀座のホステスでしたら、これは相手がプロですから面倒なケースに発展しがちです。銀座のホステスと言うのはとにかくお金が目当てですからね。脅しに泣き落としにと、男を騙すテクニックを持っているのです。奥様もしっかりと証拠を掴んで、弁護士などのプロに相談しながら対応策を講じることをお勧めします。早めの対応と対策が大事なのです。」と言われた。

私の知っている限りの詳しい説明をして、携帯に入っている直樹さんの写真を何枚か見せた。

「まぁ、まぁ、美男子なご主人様でらっしゃいますね。それにお優しそうだわ。」

「はい、主人は本当に優しくて良い人なんです。」と言うと、脇田はことさらに大きく頷いて、「これだけのいい男で、仕事ができて、お小遣いも潤沢なら、銀座の悪い女たちが放っておかないのですわ。」と言った。

以下次号

最後までお読みになって下さって、ありがとうございます。いつもながらベタな設定と拙い文章でして、たいへん申し訳ありません。 望月明美

 


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