会員限定ページへログイン

ホステスと少年  1 綾乃、心配する

2020/07/20

カウンター席に座ったお客に勧められ、さくらはコカレロを一気に飲み干した。
「いい飲みっぷり! もう一杯おごるよ。飲んでよ!」
それを見たお客は、はしゃいだ。
さくらをリクエストしたのは、イケメンの若い男だった。まだ九時過ぎというのに、すでに酔っ払っているようだ。ジャニーズ系とも呼べそうな甘い顔立ちは、むしろ幼ささえ感じさせた。もしかすると、二〇歳になっていないのではないか。さくらは怪しんだが、珍しいことではないし、年齢チェックはスタッフのすべき仕事だった。
「はい、いただきます! 喜んで」
さくらは、自分の名前の書かれたシールをショットグラスに張り付けてから酒を注いだ。このガールズバーでは、グラスにシールを貼らないとドリンクバックにならない。ドリンクバックというのは、客がキャストにドリンクをおごると、その料金の一部が給料に上乗せされるシステムのことだ。
「ええと、このバーには前にもいらしてましたよね。そこのカウンターの左端に座っていたと思うんですけど」
さくらが若い男に聞くと、
「へえ、覚えていてくれたの? 先月、先輩に連れてきてもらったんだ。今日はバイト代が入ったから、遊びに来たんだ」
と、屈託なく答えた。
「へえ、そうなんだ。バイトって何しているの?」
さくらがそう聞いたとき、男のスマホが派手な着信音を鳴らした。
「ああ、ごめん、マナーにしてなかった」
男は照れ臭そうにスマホを取り出し画面を覗いた。すると男の顔が急に曇り、眉をひそめた。
「どうかしましたか。彼女さんからかな?」
さくらが聞くと、男は、
「ううん、そんなんじゃないよ。返信しちゃうから、ちょっと待ってて」
と言って、スマホを操作した。
「これでよし。もっと飲もう」
ポケットにスマホをしまうと、男はあどけない笑顔をみせた。その頬のラインには、幼さが残っていた。やっぱり未成年に違いない、とさくらは思った。

ゴールデンウィークも間近い四月末、ル・ジャルダンは満席であった。本職のホステスだけでは足りなくなり、系列店の酒処・月の庭からも女の子が借り出されていた。
三階の奥の席では、壮年の日本人男性が恰幅のよい白髪の外国人を接待していた。男の名は、横田といって、医療機器関連会社の社長であった。決して流暢とは言えないが、実際のビジネスで鍛えられたらしい英語で懸命に外国人をもてなしていた。横田は、最近になって頻繁にル・ジャルダンに顔を見せるようになったお客だった。
横田の〝係〟は、綾乃という目鼻立ちの整った美しい女である。肌も露わなドレスや華やかな着物姿のホステスたちの中にあって、紺色の地味なスーツを着ていた。だが、その地味なスーツの上からでも、綾乃が伸びやかでバランスの良い肢体の持ち主であることは見てとれた。
横田が連れてきた外国人は、今回が初めての来日ということだった。隣に座ったホステスが着ていた着物に興味を持ったようで、そのホステスが気を利かせて扇子を手渡すと、おもしろそうに開いたり閉じたりして弄(もてあそ)んだ。
「綾乃さん、扇子について説明してもらえますかね」
横田が綾乃に頼んだ。
「扇子は、あおいで涼をとるものというよりも、和服の備品のひとつです。踊りやお茶などでは色々な用途に使われる、特別な意味を持つものです」
綾乃が流ちょうな英語で説明すると、外国人は興味深そうな表情を見せた。
「そういえば、今日のお土産に扇子を用意しているんだった。このタイミングで進呈したほうがいいかな?」
横田は綾乃の意見を聞いた。
「それは素敵です。ぜひ、そうなさってください」
綾乃はボーイを呼び、横田が預けた荷物の紙袋を持ってこさせた。
「これは、私からのプレゼントです。奥様へ日本のお土産にと思いまして」
横田は英語で説明しながら、細長い箱を差し出した。箱の中には漆塗りの扇子が入っていた。外国人が扇子を開くと、そこには一面に、目の覚めるような桜の花が描かれていた。
「素晴らしい! 最高のプレゼントだ」
外国人は大袈裟なゼスチャーで喜んでみせた。
「わあ、お洒落な扇子ね」
「宮脇賣(ヽヽヽ)扇(ヽ)庵(ヽ)って、有名ですよね」
席に座ったホステスが口々に誉めそやした。
「横田さんは、プレゼントのセンスも良いのですね」
若いホステスたちはしきりに感心しながら、横田のグラスに酒を継ぎ足そうとした。綾乃は、さりげなく、だが素早くグラスを取り上げて、水だけを満たして横田の前に置いた。接待のときには水を飲ませてほしい、とあらかじめ頼まれていた。

綾乃は、外国人を接待することが多い横田に重宝されていた。英語が得意なホステスは他にもいるし、翻訳アプリで上手に対応するホステスも多いが、何かと気が利くうえに、滅多に他の客から指名が入らない綾乃は便利な存在であるようだった。
高校生の頃に英国に留学していたことが、こんなかたちで役に立つとは思ってもいなかった、英語を生かした仕事をしたいと憧れたものだったけれど、と綾乃はやや自嘲気味に思った。
とはいえ、贅沢を言っている場合ではない。英語力でも何でも使えるものは使って、やり遂げなければならないことがある。それは、一人息子の翔太を立派に、そして無事に育てあげることだ。綾乃は、シングルマザーだった。玉の輿と信じた結婚生活が破綻し、学生時代に慣れ親しんだ銀座の街に舞い戻ってきた。
横田の席で通訳をしながら、翔太のことを思い出した。綾乃が出勤する前に《これから帰る。》とLINEが届いたが、それから連絡がつかない。妙な胸騒ぎを、綾乃は感じていた。《何時になるの?》《連絡ちょうだい。》と送信してからというもの、営業中の店内で目立たぬように何度もスマホを確かめるが、既読が付かないのだった。
「ねえ、綾乃さん。落語では、扇子でお蕎麦を食べるって、どう言ったらいいのかしら?」
スマホの翻訳アプリではよくわからなかったのか、若いホステスが聞いてきた。
「日本の古典芸能では、扇子は色々なものに見立てられます。落語では、煙草や筆や箸に化けます。トントンと音を立てるときに使ったりもします。日本舞踊では、盃や刀、波や風になぞらえられたりもします」
綾乃が英語で説明しながら、外人が弄んでいる扇子を取り上げ、鮮やかな手付きで扇子をくるくると回して見せた。
「〝要返し〟という日本舞踊の技なんです」
「綾乃さんの扇子の扱い方は本格的だね。日本舞踊も舞うのかい」
横田が感心した様子で聞いた。
「いえいえ、以前に少し習ったことがあるだけですの」
綾乃は、少しはにかみながら答えた。

横田の席が充分に盛り上がっていることを確かめてから、綾乃はそっと席を立った。非常階段に出てスマホを確かめるが、翔太のLINEは既読が付かないままだった。
LINE電話をかけてみた。だが、翔太は出なかった。次に、携帯の番号にもかけてみた。どちらも同じ電話なのだから結果はわかっているようなものだが、一縷の望みをかけて、そうせずにはいられなかった。
高校一年生の翔太は、最近ちょっと不登校気味である。公立高校の受験に失敗した翔太を、乏しい貯えの全てをはたいてレベルの低い私立高校に押し込んだ。だが、それさえも落ちこぼれかけている。綾乃に対しては、幼い頃と同じように素直で優しい一人息子の翔太なのだが、勉強にもスポーツにも興味を持てない様子である。
どうしてなのだろう、と綾乃の悩みは深まるばかりだった。学生時代の綾乃は学業優秀であったし、翔太の父親も有名大学を出ているのに何故なのだろう。シングルマザーという家庭環境が悪いのだろうか。思春期を迎えた翔太が何かに苦しみ、悩んでいることは伝わってくる。何とか手を貸してやりたいのだが、悩みの原因が分からず、どうしてやることもできない。
それから綾乃は、矢継ぎ早にLINEを入れた。
《翔太、どこにいるの?》
《お母さん、仕事に身が入らないじゃない。》
《連絡ちょうだい。》
その時、非常階段のドアを開けたスタッフが、厳しい口調で綾乃を呼んだ。
「綾乃さん、満席です。マイナス営業になります! 席に戻ってください!」
「はい、すみません」
綾乃は、急いで横田の席に戻った。


TOP